不死者カフェとの遭遇

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不死者カフェとの遭遇

「申し訳ございません、うちも今、正社員の募集はしてなくて」 「そうですか、わかりました。お手数おかけして申し訳ございません」  丁寧に謝られてしまった以上、こちらもがなり立てる訳にはいかず、私も謝り返して、店を後にした。  ……はあ。 「それもこれも、全て不景気が悪いんじゃ」  そう毒づくことしかできなかった。 ****  私が神戸まで戻ってきたのは他でもない。職を失ったからだ。社長の夜逃げで、会社に行ってから倒産を知ったなんて、逃げる間もなかったから、本当に洒落にならない。  東京では物価が高くて、貯金はあれども家賃ともろもろの支払いを考えたら心許なくて、仕方なく地元に戻ってきて就職活動しているけれど。  こちらも私が出て行ったときよりも、景気が悪化していた。もうアルバイトでもいいんじゃないかという気もしてきたけれど、いやアルバイトで生活するのは、東京よりましだからといっても厳しいだろと自分を励ます。  毎日毎日履歴書を印刷して、写真を貼り付けて送って、時には電話で問い合わせを繰り返していたら、だんだんと気持ちが荒んできた。  折角神戸に帰ってきたというのに、面接以外でちっとも外に出ていない。だんだんと苛立ってきた。もう外出よう。もう外行こう。今日はもう就活には向かない日だ。今日はもう、遊ぶ。  ずっと溜まり溜まっていたものが爆発して、とうとう私は家を飛び出した。財布にクレジットカードがあるのを確認して、なにかおいしいものが食べたいなと出かけることにした。  神戸三宮はJRに三つの私鉄が駅を連ねる場所で、少し坂を登れば源平合戦の舞台のひとつの生田神社が。その近くにはおしゃれな店が並んだトアロードがある。立地がいいせいで競争も激しく、店の入れ替わりも頻繁だから、気に入った店ができたらリピートしないとすぐになくなってしまう。  私が記憶にある店とも、また変わってきているな。そう思いながら歩き回っていたところで、角を曲がる。そこに「あれ」と声を上げた。 【不死者カフェ八百比丘尼】  名前があまりにも攻め過ぎていて、きょとんとしてしまった。  元々神戸は日本でも初の珈琲の取り扱いをはじめた場所なせいで、喫茶店の競争率は熾烈を極めていて、舌の肥えた神戸人の前でおいしくない店はすぐに審判を下されてしまう。  おまけに神戸三宮には、にしむら珈琲店、モロゾフ、ケーニッヒクローネなどの阪神圏じゃ有名な老舗チェーン店の本店が軒を連ねているため、ますます個人店の形見は狭くなってしまうのだけど。  ここはどんなもんだろう。  そういえば、折角神戸に帰ってきたというのに、未だに神戸が誇るスイーツ、食べてないなあ。そう思ったら好奇心が勝り、その店の扉に手をかけていた。 「いらっしゃいませ、一名様ですか?」  穏やかな声をかけられ、私は立ちすくんだ。  長い髪をひとつにまとめて結んでいる、背の高いメガネの男性。鼻は通っていて、肌はいったいどんなスキンケアをしているのか問い質したくなるようなきめ細やかさをしていた。睫毛は長く、切れ長の目を縁取っていた。  負けた。女として完全に負けた。こんな喫茶店激戦区の神戸の喫茶店で働くより、動画サイトで動画公開してたほうがよっぽど稼げるだろうに。勝手に下世話なことを考えてへこんでいたら、店員さんにキョトンとされてしまった。 「あのう、店に入らないんですか?」 「は、入ります! 入らせてください!」 「カウンターとテーブルとありますが、どうなさいますか?」  元々が初開拓の店の視察なのだから、カウンターから手際を見たいなあ。そう頭で計算が働き、「カウンターでお願いします」と言うと、店員さんは案内してくれた。  中に入ると、色物な店名とは裏腹に、至って考えられたつくりになっていた。調度品はアンティークでまとめられているし、テーブルや椅子もかなりの年代ものだ。それにアルコールランプでコーヒーを淹れるサイフォン式なんていうのは、よっぽどコーヒーにこだわっていなかったらしない、19世紀からのやり方だ。  メニューを見てみると、オーソドックスな喫茶メニューかと思いきや、店名と同じく意外と攻めている。  モーニングにたまごサンドとサラダのセット、ホットケーキセットが並んでいるかと思いきや、グリーンカレーがある。グリーンカレー。タイ料理じゃない。  肝心のコーヒーはというと。こちらもかなり攻めていた。  豆の種類のモカ、グァテマラ、コロンビア、ブルーマウンテン、マンデリンと揃えていて、更に深煎りのフレンチローストからやや深煎りのシティロースト、中煎りのミディアムロースト、浅煎りのシナモンローストまでを取り揃えている。  豆の種類はなんとなく聞いたことがあるくらいでわかるだろうけど、焙煎までわざわざ書いてあっても、焙煎方法はコーヒー通でなかったらどう違うのかなんてわからないでしょ。 「……面白い」  店名だけの、面白愉快な喫茶店だったら、残念ながら喫茶店激戦区の神戸で生き残るのは無理だ。でもこれだけコーヒーにこだわっています感を出すんだったら、頼んで審査してあげようじゃない。  むくむくと湧き上がってきたのは、喫茶店巡りを趣味としている自分の矜持だった。  私は店員さんに向かって手を挙げた。 「すみませーん、注文してもいいですか?」 「どうぞ」 「はい、グァテマラのミディアムローストを、ブラックで」 「……よろしいですか?」 「はい、私苦いのが好きですから」  にこっとしながら言うと、店員さんはメガネ越しに目を垂れ下げて「かしこまりました」と言って、早速カウンターへと引っ込んでいった。  ブラックコーヒーは苦手な人はとことん苦手だけれど、ウニとワインは本当においしいものを口にしたらドハマリするのと一緒。本当においしいブラックコーヒーを一度口にしたら最後、もう病みつきになってしまうのだ。  なによりもブラックコーヒーは、その店のコーヒーの味を左右する。たしかに酸っぱさや苦さはミルクやクリームである程度オブラートに包んでしまうけれど、なにも入れてないコーヒーはその裏技が通じない。  さあ、おいしいコーヒーを出しなさいと思ってカウンターを見ていたら、店員さんは慣れた手付きで冷蔵庫からコーヒーの豆を取り出すと、それをミルを使って煎りはじめた。この音を聞くとテンションが上がる。ゴリゴリゴリッて音は一瞬びっくりするけれど、だんだんその音がこれからおいしいものを出してくれるんだというワクワクに変わっていくから。  そして次にお湯を容器に入れ、焙煎した豆をセットすると、アルコールランプに火を付けた。サイフォン式は一見すると科学の実験みたいだけれど、慣れるともっとも安定したコーヒーを淹れることができると言われている。  コポリコポリと音が立ち、だんだんとコーヒーの際だった香りが広がってきた。やがて店員さんはサイフォンから綺麗なコーヒーをカップに一杯注いでくれた。 「お待たせしました、グァテマラのミディアムローストです」 「ありがとうございます」  一応砂糖とミルクも横に置いてくれたけれど、私はまず香りをヒクリ……と嗅いだ。  手で淹れるほうがコーヒーに愛情があっていいって考えもあるけれど、誰でもおいしく淹れられるんだったらそれだけに頼らなくっていいと思う。実際、サイフォン式はよっぽど蒸らし時間を無視した淹れ方しなければ失敗しないんだし。  私は匂いをひとしきり楽しんでから、軽く一杯口に含んだ。  ……香りが一気に口の中に広がり、鼻孔を突き抜けていった。香りを逃がさないように管理された豆、絶対に失敗しないサイフォン式で確実においしく淹れ、なによりもミルクを入れなくっても丸みを帯びる味……。  はっきり言っておいしい。やたらと見目にこだわり過ぎて失敗しているコーヒーもたくさんあるけれど、ここのコーヒーはたしかにおいしいコーヒーを淹れようってしているもの。 「おいしい……!」  私の感激は、思わず口から出てしまった。それには店員さんも苦笑の様子だ。 「ありがとうございます」 「あの、本当においしいんですけど……そういえばここって、バイト募集していませんか?」  思わず口をついて出てきてしまったのは、「ここで働きたい」だった。コーヒーは好きだ。飲むのは大好きだ。バイトしたところでここのコーヒーを味わえる訳ではないとはわかってはいるものの。  ここはトワロードの一角にある店なのだ。喫茶店激戦区で、今日は平日だからそこまでお客はいないけれど、土日休日となったら、この辺りの人通りは一気に倍に膨れ上がる。ここを店員さんだけで切り盛りするのは、少々荷が重いんじゃないだろうかと、老婆心が働いたのだ。だって、こんなにおいしいコーヒーが飲めなくなったら、コーヒー文化の町としての恥だと思うし。  私の申し出に、店員さんは困惑したように目を瞬かせた。 「うちは特にバイトは入れておりませんが……」 「土日はどうなさっているんですか?」 「土日は休んでますが」  商売っ気なさ過ぎ! かき入れ時に店を閉めておくなんて!  ま、まあ……コーヒー好きな人以外相手にしないならわからないでもないけど。 「それで家賃って払えてるんですか? 言ったら悪いですけど、ここ一等地ですよ」 「一応深夜営業もしていますからご心配なく」  って、なんでだよ。ここ見た感じバーでもなさそうなのに、深夜営業って。  そう突っ込みたいのを堪えて、私が更に迫った。 「正直、このコーヒー好きです。無茶苦茶おいしいです。機械に頼っても誰でもできる味じゃないと思います」 「ありがとうございます」 「ですから、もっともっとこのコーヒーおいしい店が盛り上がったらいいなと思います。私、あと少しでしたら貯金ありますんで、バイト代そこまで多くはいただきません。ですから、ここで働かせてください」  店員さんは、綺麗な切れ長の瞳を困ったように垂れ下げた。ああ、迷ってる迷ってる。あと一歩だ。私が更に言葉を重ねようとしたとき。 「……まあ、深夜営業の時間に帰ってくだされば問題ないか。いいですよ」 「やったぁ! ありがとうございます! 私、八嶋(やしま)初穂(はつほ)と言います!」 「……四月一日(わたぬき)(みつる)です。これからよろしくお願いしますね」  店員さん改め四月一日さんが折れる形で、私の再就職という名のバイトがはじまった。  このとき、私は深くは考えていなかった。この店がどうして不死者カフェなんて名乗っているのかを。どうして深夜営業のカフェなんて存在しているのかを。
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