暗がり列車

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 それは瞬き一回にも満たない一瞬の出来事。奥さんに案内されリビングのソファから腰を上げた久藤の目の前に、それは現れた。  純白のティーカップから放たれ、鮮やかに宙を舞う黒の飛沫(しぶき)。中空で波打ち爆ぜる香ばしい液体。その一瞬の情景に、久藤は葛飾北斎作「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」の荒波を見た。  「あっ」という間にそれをまともに浴びた久藤は「あっつぁ!!!」と叫びのたうち回る羽目になる。多量の熱を内包した液体は、彼の皮膚や体毛、衣類に染み付いてその身を焦がした。 「はっ!! あ、あつ、熱ッ!!?」 「あんたのような他所(よそ)様がにお目通ししようなんて、おこがましいわ!!」 「あんた!! お客さんに何てことしてんの!!?」 「うるさい!! お母さんもこそ、変な人をうちに連れ込まないで!!」  久藤に熱々のコーヒーをぶっかけたのは、まだあどけなさの残る顔つきの少女であった。彼女は、熱さに悶え上着を脱ぎ捨てる久藤を一瞥すると吐き捨てるように叫んで早々に家の奥へ引っ込んでいった。 「ちょっと!! 待ちなさい!!」  奥さんは娘の暴挙に怒り狂いその後を追う。二人の姿は見えなくなったが、家の奥から女性二人の激しい怒号が響いていた。さて、ここで困ったのは「無残にもコーヒーまみれになった挙句、放置された哀れな男」である。 「.........帰ろ」  見るからにテンションの落ちた男は、厄介事に巻き込まれる前に(ふさぎ)家を後にした。その後ろ姿には、やるせない世の中を生きる社会人の悲哀があった...。
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