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私の呟きに、天音はこくんと頷いた。
「私も感染させないようには気を付けていたでしょ。私はコロナを広めたいんじゃなくて、医療従事者家族っていうのがどういう存在なのか、その実態をテレビ画面の向こうにいるお姉ちゃんにも肌で感じてもらいたかっただけだから」
「じゃあ瑠衣を引き取ったのも……」
「あれには私もびっくりしたけどね。でも、この際だから徹底的にコロナと関わり合うのもいいかと思って、速攻でOKした」
天音は肩をすくめて打ち明けた。
「だって、お姉ちゃんは身近なところにコロナの疑いを持つ子どもがいて、それで初めてコロナいじめをする側の気持ちが分かったんじゃない? その過剰防衛したくなる気持ちも体験したからこそ理解できたことだよね?」
ここまで聞かされても私の心の中には、怒りの感情がどうしても沸いてこなかった。
確かに、この子が元凶だということははっきりしたけれど、でも天音はきっかけを作っただけ。結局は私自身の問題だったと思う。
私にはコロナで怯える人を裁く資格なんてなかっただけのことだ。
「私、今のお姉ちゃんは好きだよ」
天音は唇の端を歪めるようにして微笑んだ。
「周りには多分ひどいことばっかり言われるだろうけど、私は前までの、きらびやかなお姉ちゃんよりよっぽど素直でいいと思う」
もし今のお姉ちゃんの態度に文句を言う人がいたらこう言ってあげて、と天音は言った―――「罪のないものが石を投げなさい」
「罪のないものが、石を投げる……」
初めて聞く言葉を私は反芻する。天音は首肯した。
「そう。うちの聖アンドレア病院はキリスト教系の病院だから、こういう聖書の言葉が廊下にも貼ってあってあるんだよね。私、これを見るたびに思う。随分ご立派な正論を並べているけど、そんなことを言うあなた自身はそんなに素晴らしい人なのかって」
天音は私の側へやってきて、ワインのボトルを手に取った。そして私のグラスに赤褐色のお酒を注ぎ入れてくれた。
「お姉ちゃんは何も悪くない。お姉ちゃんと同じ体験をしたら、石を投げられる人なんていなくなる」
天音は次いで自分のコップにもワインを入れた。味気ないガラスのコップに血の色に似た液体が満たされていくのを眺めながら、私はぼそりと呟いた。
「なんだか、随分とお高い授業料になっちゃったわね」
失ったものの多さを噛みしめ、私が肩をすくめると天音も同じ仕草をした。
「そうだね。でも、コロナはこれからもっと蔓延していく。あと何年も……下手したらインフルエンザのようにずっと居座り続ける」
「うん……多分そうでしょうね」
「そう思ったら、自分の身の事だけ考えるのが一番だってことが、早い段階で分かったっていうのは良いことじゃないの?」
これからのことはこれから考えるとして、まずは乾杯しよ、と提案した天音は自分のコップを手に取った。そして私のグラスの淵にカチンと当てると、妙な透明感に満ちた笑顔を浮かべて言った。
「ようこそ、身勝手の世界へ。お姉ちゃん」
おわり
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