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全身が重い。
今日は快晴のおかげで客足が多く、店は満席が続くほどに盛況だった。やっぱりパートが一気にふたり抜けたのは痛いな。弦音ははあ、と盛大な溜息を吐く。
目前には自宅の玄関ドア、引き戸の扉は古めかしく、所々変色して黒ずんでいる。それさえ味があるようで、弦音は気に入っている。
弦音の自宅はカフェの裏手にある木造二階建ての、田舎ならではのサイズのそれなりに大きな家だ。
ここはカフェのオーナーから買い取ったもので、入居と同時に多少リフォームをしているが外観の古めかしさに相応しく室内も古い。
ひとりで暮らすには大きすぎる家だが職場のカフェへ五分もかからないのは大きな利点だし、なにより立地と古い家ということもあって買い取るさいにずいぶん融通してもらったのだ。だだっ広い家にひとりという寂しさと掃除の大変さを除けば今のところ後悔はない。
はあ、と再び溜息。
この先に優星がいると思うとどうしても身体と気分が重くなる。
いや、優星は本当にまだこの家にいるのだろうか。外から見るかぎりリビングに明かりはついていないし、もしかしたら本来の場所に戻っているかもしれない。
彼は曲がりなりにも大財閥である國江田の人間なのだ。取締役の座を継いでいるかは分からないが、どちらにせよなにかしらの重要なポジションに就いているのは間違いない。
そう思うと少し気が楽になる。
優星はそこまで暇な人間じゃない。あれほど憔悴していたのだからむしろ多忙なのだろう。帰っているとしたら無理をしないか少し心配だけれど、きっともうこの家からは出て行っているだろう。もしも、万が一にもまだいたとしても、そう長居はしないはずだ。彼には帰る場所があるのだから。
「ただいま」
弦音はなるべくいつもどおりを心がけて引き戸を開ける。
帰宅の挨拶は愛犬へ向けてのものだったけれど、肝心の愛娘は夢のなからしい。寂しがりやのあの子は今日も弦音のベッドで丸まっているのだろう。
静まり返った家。外から見たとおり見える範囲では明かりはついていない。
やっぱり帰ったのか。安堵しながら靴を脱ぎ電気をつけ、上がり框を上った。
玄関スペースを抜けてリビングへ行くと案の定真っ暗で、弦音は廊下に荷物を下ろしすぐに風呂場へと向かった。
今ソファにでも座ろうものならそのまま寝てしまうのが目に見えている。さっさと風呂に入って寝る準備を整えて、それから夕食にとりかかればいい。
さっと風呂に入りパジャマを着て髪をドライヤーで乾かす。春といっても夜は冷えるのでしっかりと温風を当てた。風邪をひいたらカフェの営業にダイレクトに響くので体調管理には気を使うのだ。
だから本当はこのままベッドに飛び込みたくても、どれだけ疲れていてもきちんと夕食をとるように心がけていた。
すっかり温まった身体でリビングに向かうと、すぐに電気をつける。そして驚愕のあまり「ひっ」と情けない声を上げた。
古めかしい外観に相応しく、広々としながらも古ぼけた雰囲気の、暖房もなにもついていないせいで冷えたリビング。そこにあるソファ。座るひとりの男。
「優星?」
脱力してソファに座る優星は暗闇のなか、全面の窓の外を静かに見つめていた。
弦音は唐突に苛立った。
なぜ、と思う。なぜ今になって弦音の前に現れたのだ。過去を連れるように春の気配をまとって、なぜ。なぜ今になって弦音の平穏を壊そうとするのだ。
苛立ちに任せ大きな歩幅で優星へと迫る。乱暴な足音が弦音の胸中を反映していた。
「優星」
呼び声に応えはない。ただただ虚無に、見つめる窓の外の景色さえ映らない暗いグリーンアイズにぞっとするなにかを感じながらも、弦音はだらりと力なく垂れた優星の腕を掴んだ。
正面から見下ろす優星の顔はなんの感情も浮かんではいなかったけれど、それでも美しいグリーンアイズに煽られるように声を荒げるのを抑えられない。
「優星、いい加減に──……」
「……の」
「え?」
弦音の声を遮るように呟かれた低い声。
掠れたそれを聞き取れず聞き返す弦音の、優星を掴む腕。その腕がぐ、と引かれたたらを踏んだ隙をついて、反転、優星は弦音の手を掴んだ。
ぎゅう、と強い力に弦音の眉間にシワがよる。
それをかまわない優星は掴んだ弦音の手をさらに強引に引き寄せ、弦音はたまらず膝をつき、今度は逆に優星を見上げる体勢になった。
なにを、と思ったとき、はっとした。
グリーンアイズが弦音を見下ろす。
優星、と戸惑う声が漏れる前、優星の青ざめた唇が言葉を紡ぐ。
鋭い光を宿したグリーンアイズに見合った鋭利さを持つ言葉をひとつ。
「裏切り者」
そのあまりにも鋭く、熱を感じるほどの憎しみが宿った声に、弦音は息を飲んでただグリーンアイズを見上げることしかできなかった。
「優星……」
「裏切り者」
「やめ、て」
「裏切り者」
見ていられない。じりじりと燃えるグリーンアイズが、過去の、そして現在の弦音を責めたてる。
耐えられない。
ぎゅ、と目を瞑り優星の瞳から逃れようとするけれど、それを許さないとばかりに彼は弦音の腕を掴む手の力を強めた。
痛い。掴まれた腕だけじゃない。心が、頭から爪先まで全身が、痛い。
「あんたは逃げた」
「違う」
「逃げたのに」
「やめて」
「なのになんで笑っていられるんだ」
「やめてくれ、頼むから」
「裏切り者」
「やめてくれ!」
耳を塞ぎたい。でもできない。弦音の腕を掴む手を引き離したくて、やっぱりそれもできない。
優星に掴まれた腕から侵食するように、彼の熱が弦音の身体を巡り、たどり着いた心臓が嫌な鼓動を刻んでいた。
「弦音会長」
「ちがう、僕はもう会長じゃ……」
「あんたもそうだろう」
「やめて」
「あんたも」
ここで初めて優星の声が揺れる。
思わず開けてしまった瞳に映るグリーン。新緑を思わせるグリーンアイズ。はっ、と飲んだ息が喉に詰まって息ができない。
優星は続ける。弦音を通り越してなにかを見ているかのように、不安げに、途方に暮れたように弦音を見つめている。
「あんたも、あの学園に囚われたままだ」
やめてくれ! と叫ぶ弦音の悲鳴は音にならなかった。
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