Green-eyed monster

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「狩屋様、益美様、ごきげんよう」 「ごきげんよう」  壁紙まで美しい廊下を歩きながら、ごきげんよう、なんてこの学園に来るまで聞いたことなかったなあ、と呑気に思う。  隣を歩く流は返事をせず、相変わらず眠たげな顔でのんびりとあくびをしていた。 「流、ごきげんようだって」 「……うん」 「公立校では絶対聞けなかったよなあ」 「……うん」 「眠いの?」 「……うん」 「寝すぎじゃない?」 「……うん」  なにをきいても同じ反応の流は、気怠げながらも弦音の歩みのペースに合わせて歩いてくれている。  こういうところも変わらない。背丈だけはぐんぐんと伸びて体の厚みも増したけれど、流の本質はいつも穏やかで優しかった。 「懐かしいなあ」 「なにが」 「お、起きた」 「起きてた」 「そう?」 「そう」 「小学校、懐かしいなって思って」 「ああ、庶民の」 「ふふ、そう。庶民の学校。楽しかったなあ」 「うん」  麗泉学園の中等部に入学するまで、弦音は一般的な幼稚園、小学校に通っていた。  流とは小学校で出会い、そこからの付き合いだった。  狩屋の家は厳格だ。家格に相応しい教育を、と幼い頃からスケジュールを管理され徹底的に教育される。  そんな狩屋だが、弦音はなぜか私立ではなく一般的な幼稚園に入れられ、そのまま公立小学校へ入学した。その当時の当主は弦音の祖父で、祖父にどういう考えがあったのかはわからない。  でも弦音は感謝していた。だってそこで、流と出会えたから。  かけがえのない幼なじみの隣。のんびりとした空気。壁掛けのランプ型の飾り照明は、きっと弦音の通った小学校にあったらとっくに壊れているだろう。  こういう些細な装飾からも、この学園に通う生徒たちの生まれと躾けられた行儀の良さが伺えた。  生徒会室の前まで迎えに来てくれた流と食堂へ向かう昼休み。役員棟を出れば中庭が広がっていて、ちらほらとランチをとる生徒たちが見える。  春らしく風が強い日だ。テラス席はまばらに埋まる程度で、いつもの賑やかしさはない。  校舎棟の裏手、中庭の先に食堂がある。独立した建物で、ドーム型の屋根が美しいそこを食堂と呼ぶことに、弦音はいつも違和感を覚えていた。  ちなみに寮の食堂は寮棟のワンフロアを贅沢に使ったものだ。  食堂へ入る直前、流が弦音の前へ立つ。まるでなにかから守るかのような行動に、ああまたか、と弦音は嘆息した。 「流、大丈夫だよ」 「ふうん」  声をかけても流は引かない。弦音は呆れたように笑って、食堂へと足を踏み入れた。  途端、歓声。 「狩屋様!」 「益美様もご一緒だ!」 「今日もお美しい」  食堂へ入る度に受ける歓声にはもうすっかり慣れてしまったなあ、と弦音は笑顔を浮かべて足早に役員専用フロアへ向かう。  ここで押し寄せたり無理に話しかけたりしないところは、やっぱり躾の行き届いたお坊ちゃんだよなあ、と弦音は感心と呆れを混ぜて思う。  まあなかには「抱かせてくれ」だの「抱いてください」だの、とてもお行儀がいいとは言えない野次まがいの声も混ざっているのだけれど。 「生徒会長だ」 「あのひとでしょう、國江田様を無理やり生徒会にいれようとしてるっていう……」 「なんか綺麗すぎて怖いよね」  こういう騒ついた場でも、自分にとって不快な声は不思議と耳に入ってくるものだ。  弦音は無反応に通り過ぎようと思ったのだけれど、その前に流が反応してしまったようだった。  流は無言で声の出どころを見つめている。  流の美しいアンバーの瞳を向けられたほうはといえば、ぽっと頬を染めているのだから呆れてしまう。  さきほどの台詞から推測するに、彼らは優星の親衛隊だろう。弦音が気にくわないのは理解できるけれど、そう表立って弦音を批判すれば立場が危うくなるのは彼らのほうだ。  現に今、弦音の親衛隊どころか流の親衛隊も、彼らを睨んでいた。 「流、気にしなくていいよ。僕も気にしていないから」 「……ふうん。なら、いいけど」  正直、弦音自身の親衛隊より、流の親衛隊に睨まれるほうが厄介だと、彼らはまだ気がついていない。  流の立場はすこし複雑なのだ。その親衛隊も彼を守ろうと必死に行動するあまり周りからは『過激派』と言われている。  流の親衛隊は弦音に次ぐ規模なので、彼らを敵に回すと弦音でさえ少々困る事態になる。  そんな存在を、いくら國江田でも、高等部に上がりたての優星がうまく往なせるとは思えなかった。  それでもいまだ頭上の王冠を下ろさない王様は、それをわかっていないようだ。  弦音たちが行く先、四人がけのテーブルで、優星は優雅に食事をしている。まるで喧騒などないかのように平然とした顔でカトラリーを操る手は滑らかだ。  今は関係ないけれど、黒に近い深い藍色の、身体の線を美しく出す細身のブレザーは優星によく似合っていた。  どうしようか。弦音は思案する。  このまま行けば優星の真横を通ることになるのだけれど。  向こうから声をかけてくるのなら問題ない。でも素知らぬ顔で食事をとる優星を見るに、声をかけてこない可能性のほうが高いような気がした。  それならば弦音も無視をしてもいい、と簡単考えればいいのだろうけれど、そうもいかないのがこの学園の面倒くさいところだ。  弦音はスピードを落とさず歩を進める。  なぜ役員フロアへの道中に腰かけたのだ、と舌打ちしたい気分だ。  流はなにも言わずについて来てくれるけれど、彼が不快な思いをしないか心配だ。大事な幼馴染みに、これ以上不快な思いをして欲しくなかった。  だんだん近づく優星との距離。優星はこちらをちらりとも見ない。  どうしようか。こちらから声をかける? でもそれだと余計に弦音の親衛隊の反感を買いかねない。優星の立場を悪くすることは弦音の本意ではなかった。  でも優星が弦音を無視したとなるともっと反感を買うのは目に見えている。 「面倒くさいなあ」  うんざり、といったふうに慨嘆する弦音の、表面上はにこやかな笑みを見ても流は飄々とした態度を崩さない。それに少し気が紛れ、弦音は優星の前で立ち止まった。
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