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「さてと。記録更新できるかな」
広々とした生徒会室。上座にあるデスクに座り、弦音はストップウォッチのアプリを起動した。
音もなく刻まれる数字から視線を外し、手元に広げた書類に目を通して押印していく。
黙々と作業をこなし三センチあった書類の厚さが一ミリほどになったころ。認証音とともに生徒会室の重厚な扉が開いた。
停止をタップする。
「うーん。記録更新ならず」
「なんの用だ」
「こんにちは、宏大」
「用件は」
「今日は随分とゆっくりだったね」
数字は二十八で時を止めている。つまり呼び出しをかけてから三十分近く、弦音はこの男がやってくるのを待っていた。
それを知っているはずなのに、宏大は鋭い眼光で弦音を睨みつけ、面倒臭いといった態度を隠そうともしない。
はあ、と溜息ひとつ。
弦音はもう宏大に貴重な放課後の無駄な浪費について説くのを諦めた。
「どうぞ、座って」
「要件は」
「どうぞ、座って」
意図して繰り返す弦音に、ちっ、と大きな舌打ちを床に吐き捨て、宏大は渋々といった様子でカウチソファに寝そべるようにして座った。
「宏大」
「……」
「生徒会の授業免除制度は、生徒会の仕事があって、止むを得ず授業を受けられない場合があるから設けられたものであって、個人的な……例えばサボりだとか喧嘩だとかのためにあるものじゃない、っていうのはもう何回も説明したよね」
「……」
「宏大」
ちっ、とまた舌打ちが響く。はあ、と弦音も溜息で返した。
「君は優秀だよ。期限内に完璧な仕事をしてくれていつも本当に助かってる」
「でも?」
「そう、でも生活態度がよろしくない」
「今更だろ」
「本当に今更だね。でももったいないと思うよ」
宏大はブリーチを繰り返しすぎて、青を入れたのに水色になってしまった短髪を苛立ったようにかき混ぜる。
百八十センチに近い身長と分厚い身体。奇抜な髪色だけでも十分に威圧的なのに、耳朶にぽっかりと空いたラージホールと唇にある粒のようなピアスが宏大の秀麗ながらも強面な顔を更にきつくして、より一層近寄りがたい雰囲気を増していた。
弦音は視線を合わせようとしない宏大の男らしくがっしりとした横顔を見つめながら言い聞かせる。
「喧嘩するなとは言わないよ。でもせめて、挑発に乗るのはやめたら?」
「黙って殴られろってのか」
「君なら上手くやれるだろう?」
「お前はどうなんだよ。黙って殴られるタマか?」
「僕は殴る気を削ぐのが得意だから」
そう言って弦音はわざとらしく悲しそうな顔をしてみせた。
飛び抜けて美しいひとを殴るのにも勇気がいる。よほどの嗜虐趣味がないかぎり、弦音を故意に傷つけることは難しい。
儚く微笑む弦音は宏大から、ちっ、と三度目の舌打ちをもらった。
「この際本格的にボクシング部に入部してみたら? 練習には参加しているんだろう?」
「入ったら喧嘩できねえだろ」
「まだチームとやらに入っているんだね」
「わりいかよ」
「さあね。でも、族とチンピラのなにが違うの?」
激しい音がした。宏大に蹴り飛ばされたテーブルが悲鳴をあげながら壊れる音だ。
見ればカウチソファの傍にあったはずのサイドテーブルが定位置から遠く離れた場所で無残な姿になっている。元からアンティーク調で華奢な造りだったけれど、宏大が蹴り上げた威力で脚が半ばで折れていた。
宏大が振り向きこちらを睨みつける。身体に怒気を纏う宏大は、ただ立っているだけで凄味があった。それはとても一介の高校生が出せる威圧感ではない。
ライトブラウンの瞳はべつに弦音を睨んでいるわけではないのに、猛禽のように鋭く爛々と輝いている。
「お前の指図は受けない。生徒会がボロクソに言われても、それはDクラの俺を指名したお前のミスだ」
DからSで分けられるクラスは基本的に成績と生活態度順だ。宏大は成績は悪くないのに素行の悪さが目立ちDクラスに在籍している。
代々人気投票の順位順に役員を割り振ってきた生徒会において、Dクラスの生徒が生徒会役員の座に就くのは異例だった。
宏大の迫力に怯むことなく、弦音は態とらしく肩を落とした。
「君は優秀だ。僕はミスだなんて思っていないよ」
「用件はそれだけか」
「宏大、もうすぐ会議だよ」
「くだらねえことで呼び出すな」
そう吐き捨てて、宏大は生徒会室を出て行った。
残されたのは宏大の怒りの残痕だけ。
弦音は不思議に思う。
宏大はたしかに気性の荒いところもあるけれど、それは決して向こう見ずな衝動的なものではなく、本人はいつだって冷静に物事を見て行動している、どちらかといえばその冷静さを活かして戦うタイプのように思うのに、なぜああも偽悪的に振る舞うのだろう。
宏大を見ているとまるで自分から嫌われにいっているような不可解さと、中身と外側が噛み合っていない奇妙な違和感を抱く。
本来ならば真っ直ぐなはずの宏大を、なにがああも歪んだものにしてしまったのだろう。
弦音はチェアの背もたれに体重をかけ天を仰ぐ。
生徒会の評判だとかDクラスだとか。気にしているのは弦音ではなく、宏大自身に見えるのは気のせいだろうか。
「ただいまー……っえ? なにこのバイオレンスな現場」
小さなロック解除の音のあと、直輝が顔を出した。
宏大を呼び出す前に風紀に行って、戻ってきた今その手にはダンボールがあるので、きっと新たな仕事をもらってきたのだろう。
「大丈夫か? なんかあった? つってもこの様子だと宏大だろうけど」
「いやあ、ちょっと刺激しすぎたみたい」
「怪我は?」
「僕は無傷だよ」
ちら、と無残な姿に成り果てたテーブルに視線を向けると、直輝は苦笑と諦観の間のような奇妙な顔をした。
クラスに見合った素行の悪さで生徒会に相応しくないと言われる宏大と、その平凡な容姿のせいで宏大と同じようなことを事あるごとに言われる直輝。似たような境遇の宏大に、なにか思うところがあるのかもしれない。
「清掃員呼ばないとなあ」とぼんやりと呟く直輝は、気を取り直したのかぱっと顔色を明るくした。
「それより見ろよ、これ」
「追加の仕事じゃないの?」
直輝は抱え持つダンボールを流れでサイドテーブルに置こうとして、ひしゃげた姿を思い出したのか重厚なローテーブルへと降ろした。器用にも道具も使わずに開けていく。
「今年もこの季節が来たな」
弦音は満足気に頷く直輝に近づいて、一緒になって覗き込んだ。
そしてひと言。
「尻尾だねえ」
一週間後に迫った五月のイベント、新入生歓迎会の準備はすでに大詰めに入っている。
優星と宏大の問題は一旦脇に置いて、弦音は目先の仕事に集中することにした。
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