1486人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
絵の具の匂いがする。油絵のもたついた独特の香り。
使い込まれて平べったい絵の具の容器。色が渋滞し賑やかなパレット。細長いヘラや汚れた布。専門的な道具の名前は知らないけれど、どれも大切に使い込まれているのを知っている。
春の白い日差しが第二美術準備室を照らす。開いている窓から濃い緑の香りを乗せた風が吹き込んで、レースカーテンをふわりと膨らませた。
カーテンに隠された、キャンバスに向かう広い背中。すらりと縦に長く、男らしく肩が張っている。
木製の丸椅子に座り利き腕で細かく作業をこなしている彼の、肩の筋肉が動く様子が薄いシャツ越しに伺える。それがなぜか面白くて、飽きることなく眺めていられた。
「弦ちゃんさあ」
春の風を抱き込んだカーテンが萎んでいくと同時にのんびりとした声が流れてくる。
狩屋弦音は頬づえをついた体勢のまま松添直輝の肩甲骨の動きを眺め、「んー?」と間延びした声で続きを促した。
「國江田のご子息どうするよ」
細かく動く右腕。少し左に傾いた肩。動く身体に合わせて生まれるシャツの皺。
冬の名残はどこにもない陽気な風が吹き込む。カーテンが膨らむ。いたずらな風が直輝の背を再び隠し、その淡いシルエットが透けて見える。
「かっこいいなあ」
思わず溢れた弦音の感嘆に、直輝は喉の奥で笑った。
「たしかに。中等部んときもかなりの美少年だったしな」
「うん?」
「國江田少年。俺らは一年間しか被らなかったけど、かなり目立ってただろ。弦は中等部からの外部入学生だから知らないだろうけどさ、小等部のときから有名だったんだぜ。あの國江田で、さらには美少年。中等部に上がってきたときは大騒ぎだったなあ」
懐かしい、とこぼす直輝の肩が笑う振動で揺れている。
今とりかかっている作品のキャンバスは然程大きくないようで、直輝の真後ろの机に腰掛ける弦音の位置からは彼が描いた絵は見えない。
「なに言ってるの、直輝のことだよ」
「は?」
「かっこいいなあって思ったの」
「はあ?」
思わず、といった様子で振り返る長身に弦音は眉を寄せた。
「動かないで。まだ見たくないんだから」
「あのなあ……見たくないなら来るなよ」
「邪魔?」
「邪魔ではないけど。てか弦ちゃん、あんまりびっくりするようなこと言わないでくれる? 自分の容姿自覚してるだろ?」
困ったような顔で直輝が言う。
弦音は直輝の柔らかなブラウンの瞳を見つめ、ゆるりと笑って見せた。
「美しいって?」
頬づえをつき、傾いた顔にかかる艶やかな黒髪と白磁の肌のコントラストが弦音の際立って美しい顔を鮮やかに彩っている。
細くまっすぐな鼻梁につんと尖った鼻先。少し垂れ気味の眦に漆のようなとろみのある色合いの黒い瞳。ゆるりと美しく弧を描く口元にある黒子が匂い立つような色気を放っていた。
他人にどう見えるかを十分に自覚している美しく計算された微笑みに、直輝は呆れたように苦笑して再びキャンバスに向き直った。
弦音は艶やかな笑みを保ったまま、広い背を眺めることを再開する。
かっこいいなあ。今度は口にせず、心のなかで呟いた。
「男は簡単に勘違いする生き物なんだから、あんまり不用意なこと言わないように」
「僕も男だよ」
「知ってる。けど今更だろ。ここをどこだと思ってる」
「麗泉学園。男の花園、全寮制男子校」
「よく分かってんじゃん」
はは、と直輝の軽やかな笑い声が風に乗って流れて行く。その行先を辿るように、弦音は窓の外へ目を向けた。
薄いカーテン越しの景色はぼやけ、遠くにある山々の強い緑色が今は柔らかい。
「で? 結局、國江田少年どうすんの」
「生徒会補佐に指名するよ」
「え」
心底驚いた顔でこちらに振り返った直輝の先。描きかけの絵から目を逸らす。
弦音は直輝の描く絵のファンだ。だから完成してからじっくり鑑賞したい。でも絵を描く直輝を見るのも好きなので、こうして直輝のアトリエと化した第二美術準備室へ足繁く通うのだ。
「驚くことじゃないだろう?」
「まあ中等部であんだけ問題が起きてりゃあなあ……」
「なんだっけ、ストーカー、強姦未遂込みの迷惑、犯罪行為だっけ」
「そう。さらに同室者から私物盗まれて三度部屋替えしたけど改善せずに、何度も繰り返されたらしいぜ。中等部一年のとき代替わりで生徒会に入って役員専用フロアの個室に移動したけど、それでもフロアへの不法侵入が後を絶たず……誰かさんに匹敵するほどの人気者だな」
「やめなよ照れる」
弦音の返しに呆れたように下がる広い肩。弦音はにこり、と極上の笑顔を直輝へぶつける。
そんな反応をされても、弦音の容姿が整っていることは事実だった。
最初のコメントを投稿しよう!