プロローグ

2/2
前へ
/262ページ
次へ
國江田(くにえだ)優星(ゆうせい)、ねえ」  歴史ある大家から新進気鋭のアーティストまで。いわゆる富裕層といえるランクの親を持つ子息が多く通う学園のなかで、國江田の名はとても大きい。なにせ大財閥の話題になれば必ず挙がる名前だ。親の勢力図をそのまま反映しているように家柄を重視する風潮の濃いこの学園において、その名の威力は計り知れない。  加えて頭脳や容姿にも恵まれているというのだから、この学園の特色上、熱狂的なファンがついても仕方がないことなのだろう。  誰しも強いものに惹かれる。  それは単純な身体能力だけでなく、権力でも同じだった。 「まあ影からこそこそ守るより、役員にして個室にぶち込んだほうが楽だしな」 「だろう。それに彼、中等部では生徒会長やってたんだし適任じゃないかな」 「でも三年が問題だよなあ」 「ああ、たしかに」  面倒くさいな、と思いながら、弦音は陽気な春陽を遮るように目を閉じた。  直輝の作業が終わったのだろうか。カタカタと音がする。きっと絵具を片付けているのだろう。  片付けの音をBGMに、弦音はあくびを噛み殺す。滲む涙を拭うついでに目を開き、眠気を誤魔化すように口を開いた。 「國江田優星の名前はともかく、性格や生活態度や役員としての能力とか、二年は多少知ってるかもしれないけど、三年はほぼ知らないだろうね。しかも僕らは受験生。誰だって個室が欲しい。それをよく知らない新入生を役員に指名して個室を与えるんだから、不満が出るのは当然だ……ふふ、また職権乱用だって騒がれそうだなあ」 「それはほら、我らが生徒会長サマがランキング無視して役員を指名したから。始まりからずれてるんだ、今更気にすんなよ」 「まあね。それについては今でも間違ったことをしたとは思っていないよ。だいたいタチネコランキングなんて馬鹿げたもので決めるほうがどうかしてる」 「おいおい、あけすけだな」 「抱きたい・抱かれたいランキングだったっけ」 「人気投票ランキング、だろ。古い風習みたいなもんだからなあ」  窘める直輝を鼻で笑った。  どう取り繕ったって下品さは隠せないのに。 「ま、俺はランキング圏外だし。総合ランク一位のキング様の苦労はわからねえわ」  片付け終わったのか直輝はキャンバスを陽の当たらない場所へ移動させている。  弦音はそれを視界に入れないように目を伏せた。なるべく完成まで目に入れたくないので。 「直輝は僕が知るなかで、一番良い男だよ」  部屋の隅から吹き出すように笑い声が弾けた。  本気で言っているのに、とむっとする弦音に構わず、直輝はなおも笑い続けながら振り返る。 「こんな平凡にはもったいない言葉だな」  たしかに直輝はイケメンだとか男前だとか、容姿が優れているわけではないし、特徴のない顔つきは本人の言うとおり平凡なのかもしれないけれど。  でもすらりとした長身に長い手足。趣味の筋トレが功を成して引き締まった身体。黒に近い焦茶色の髪と瞳は柔らかな印象で、優しくひとの良い直輝の人柄を表しているようだった。 「容姿だって僕は嫌いじゃないけどなあ」 「良くも悪くも際立ったところがなくて目立たない。凡人なのが俺の取り柄だから」 「なに言ってるの、優秀だから副会長なんだろう」 「ランキング無視した横暴会長のおかげでな」  快活な笑顔を見せる直輝は本当にかっこいいと思うんだけどなあ。  弦音は直輝は絵を描く姿が一番かっこいいと思うけれど、普段だって十分魅力的だと心の底から思っている。  早くから絵描きになることを決め、そのために努力する直輝の姿を弦音はすぐそばで見てきた。  直輝の右手の側面はいつも黒く汚れている。デッサンの際につく鉛筆の汚れだ。指先だって爪の間に入った絵の具のせいで綺麗とはいえない。  直輝は努力や苦悩を見られることを嫌っているから堂々と心配や応援をすることは出来ないけれど、弦音の知らないところで弦音の想像を超える努力をし、苦悩していることを知っている。きっと直輝は知られていることさえも嫌がるのだろうけれど。  誰もが知る家名の跡取りである直輝が、跡を継ぐことを拒んでまで選んだあまりにも険しい道。  アーティストとして光ある場所へ辿り着ける者はほんの一握りの人間だけだ。  それを覚悟で、直輝はその道を選んだ。 「やっぱりかっこいいよ」  繰り返す弦音に直輝は照れたように笑ってみせた。白い室内、絵の具で汚れた顔で笑う直輝は文句なしにかっこいい。  そんなどこか擽ったくも穏やかな空気が流れるふたりの間に、ガラリ、という不粋な音が割り込んだ。 「弦音」 「流? どうしたの、珍しい」  ドアを開けて顔を出した益美(ますみ)(ながれ)が弦音の呑気な返しに秀麗な顔を顰めた。 「食堂、行くって言ってたから」 「ああ、ごめん忘れてた」 「腹減った」 「悪かったよ」  入り口から動かない流にちらりと視線をやり、弦音は「直輝も一緒にどう?」と誘いをかける。  けれど直輝は苦笑して首を横に振った。 「馬に蹴られたくないからな」  肩を竦めて椅子の片付けにとりかかった直輝に、弦音はにこりと笑みを向けた。 「うちのはそんなに狭量じゃないよ」 「はは、そりゃ良い男だな」 「直輝の次にね」 「だってよ、旦那さん」  椅子を手に屈んだまま直輝が流を振り返る。  対角にいる直輝と流。ちょうどその間にいる弦音。  このとき、どちらに向かって手を振ればよかったのかと、弦音は今でも考えることがある。 「みんなで行けばいい」  呆れたような流の声。 「ほらね」 「まじで良い男だな。あーでもごめん、俺まだやることあるんだ」  そう、じゃあしようがないね。なんて言って、弦音は手を振った。笑みさえ浮かべていたかもしれない。  あのとき直輝は、流は、どんな顔をしていたのだろう。  思い出せない。  絵の具の香り。もったりとした油絵の匂い。レースカーテンに隠れる広い背中。薄いシャツの皺。筋肉の動き。声。笑顔。それら全て。  もう、簡単には思い出せないほど過去になってしまった。  現在が過去に。過去は遠く離れた思い出に。  あの絵の具の香りに包まれた日々はもう、思い出になってしまっている。
/262ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1486人が本棚に入れています
本棚に追加