嫉妬のひとみ

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嫉妬のひとみ

 ふ、とウォールナットのテーブルにかかる影のコントラストが薄くなっていることに気が付き、狩屋(かりや)弦音(つるね)は顔を上げた。南向きの一面窓から入る白い日差しにはいつの間にかオレンジ色が混ざりはじめ、空は重たそうな雲を抱えている。  ずいぶんと懐かしい過去を思い出したなあ。弦音は苦笑して瞼を伏せる。白磁のように滑らかな頬に整った睫毛が扇状の影を落とし、端正な美貌を儚く見せた。  虚しい回顧だ。なんの意味もない、ただの感傷。  振り切るように、そろそろ外のライトをつけないとな、と弦音が思ったタイミングで「(つる)、ライトつけておいたよ」と藍色のエプロンを纏った笹野(ささの)が店内に入りながら声をかけてくれる。外は風が強いのか、笹野はラフに結った髪を鬱陶しげに直している。  弦音は笑顔でお礼を告げ、拭きかけのテーブルを手早く拭きあげた。 「雲がかかりはじめたから、夜には雨が降るかも」  笹野は「さいあく」と続けて吐き捨てカウンターキッチンへと入っていく。  笹野は最近、昔事故で負った傷が痛むとしきりに愚痴ていたから、尚更雨が鬱陶しく感じるのだろう。案の定膝が痛み出したと言い出す笹野に、弦音は苦笑しながらも相槌を返す。  実際、春は雨天が多いよなあ、と弦音は思う。  桜も満開の今の時期、懸命に咲いた花を容赦なく叩き落とす雨はたしかに少し憂鬱だ。とくに山の麓は天候が変わりやすく、そして雨天と晴天では気温差が大きいので商売にも影響がでるのだ。  聞き流していた笹野の愚痴が膝から腰の不調に移ったとき、ちりん、と涼やかな音が鳴る。と、同時に春の強い風が入り込んで暖簾を大きく揺らした。 「いらっしゃいませ」  弦音の柔らかな声に迎えられた客は、一瞬息をのむ。それからはっとして瞬きをし、しばらく惚けたように弦音を眺め、そして二度目の「いらっしゃいませ」が弦音から出たときにやっと我に返る。それが初めて『弦屋(つるや)』に来店する客が一様にする反応だった。  それはたった今暖簾をくぐった若い男性客も同じで、暫く放心したあと、弦音の「一名様でいらっしゃいますか?」の声かけに慌てたように頷きを返した。  弦音は客の挙動不審な反応にも慣れた様子で笑みを返し、スマートに席へ案内した。  弦音の整った容姿と相まって、その優雅といえる動作に客はぽうっと頬を染め、操られるようにして後を追う。  一連の流れを見ていた笹野は、内心でうへえ、と悪態をついた。  弦音は美しい。緩やかにウェーブする黒髪と漆のようなとろとろとした艶やかな瞳。反して肌は白く、薄く色づく唇の横にぽつりとある黒子が妙に色っぽい。  すらりとした長身は細身だけれど華奢というほどでもないし、ラインだって直線的な男性のものなのに、なぜだか匂い立つような色気がある。どこか夜の気配を感じさせる弦音は、恐ろしいほどに(あで)やかな男だった。  決して女性的ではなく、どちらかというと男性的な色気だと笹野は思うのだけれど、注文を確認する弦音をいまだ惚けた様子で見つめている男性客を見るに、性別を超越した色気なんだな、と納得するというか再確認するというか。 「あと、あの、作品を見たいんですけど、いいですか」  やっと顔の赤みが引いた客が震える声で言うのに、弦音は満面の笑みで了承を返した。それに客が再び放心する様子までを見届けて、笹野は「女やってらんねえな」とひとりごちて自分の城、メインキッチンへと引っ込んだ。  ギャラリーカフェ『弦屋-TSURUYA-』。  弦音が営む小さなカフェは、今日も山の麓に埋もれるようにしてひっそりと開店している。
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