嫉妬のひとみ

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「ありがとうございました」  本日最後の客を見送った弦音は、客の車が見えなくなったのを確認して外のライトを消した。  春夜の冷えた空気に身を竦め早足に店内へ戻れば、そんな弦音を右手にモップ、左手にスマホスタイルの笹野が出迎えた。  弦音が不真面目なのか真面目なのか分からない笹野に注意を飛ばす前に「雨降りそう?」と横目で聞かれ、反射的に「うん、すぐにでも」と返して文句を言うタイミングを逃してしまう。  笹野は「まじかあ」と心底憂鬱そうに溜息を吐き「古傷が痛む」と何故か右目を押さえた。膝じゃなかったのか。弦音は言葉を飲み込み、代わりに「送って行こうか?」と声をかけた。 「んや、大丈夫。置き傘あるし」 「でも風邪ひいたら大変だよ」 「そんなやわじゃないよ、私も、小鉄も」 「コテツ?」弦音が首を傾げると、「こいつの名前。コテっちゃんって可愛くない?」笹野はお腹を指して言う。 「昨日までササノスケだったよね」 「いつの話してんの」 「だから昨日だって」  呆れる弦音を置いて、笹野は膨らんだお腹をぽんぽんと叩きながら「ササノスケもいいんだけどさあ。坊主頭で鼻に絆創膏貼ったこいつが、『コテっちゃーん! 虫取り行こうぜー!』って呼ばれてんの想像しちゃったらもう、ね?」と言うが、弦音はなにが「ね?」なのか分からない。が、笹野の「最高に可愛くない?」に「可愛いに決まってる」と即答するくらいには簡単に想像できた。 「やっぱり送っていくよ」 「いいって」 「僕はコテっちゃんを送っていくから、笹野はひとりで帰ってどうぞ」 「おい。どうやってだよおい」  まだ雨は降っていないけれど、雲は分厚く、夕方といっていい時間帯なのに既に周囲は薄暗い。すぐにでも降り出しそうななか、笹野とはいえ妊婦を放り出すことはできなかった。 「母ちゃん呼ぶからまじでいいよ。今日森仲(もりなか)先生の茶碗売れたんでしょ? 早く連絡しなきゃあのひと寝るよ」  たしかに。弦音は頷く。  陶芸家の森仲は日が落ちるころに眠り、日が昇るころに起きるという仙人みたいな生活をする、仙人みたいな容姿の、もう仙人でいいのでは? というような御仁だった。 「うーん」 「ほら、もう母ちゃんに連絡したから。さっさと閉めて帰ろうぜ」 「うーん」  なおも「でもお義母さんにも用事が……」と渋る弦音に「父親面すんな!」笹野はモップの柄で弦音の背中を殴った。  じんじんと痛む背中から意識を逸らしてPCに向かう弦音に「ねえ」と声がかかる。一瞬無視しようかと思うくらいには強めに殴られたのだけれど、一応「んー?」と返事をする。無視なんて大人気ないことをしたらコテっちゃんに嫌われてしまうかもしれないので。 「次のひと決まった? あと一ヶ月しかないよ」 「パティシエ?」 「と、パート」  笹野のじとりとした視線に「あー」と気の抜けた音で応えた弦音は、今日の出納を入力しながら顔をしかめた。 「パートはともかくパティシエはなあ……産んだらすぐに帰っておいでよ。ここで一緒に育てよう」 「出産なめてんな?」 「コテっちゃんもはやくママのケーキが食べたいって」 「育児なめてんな?」  笹野は弦屋唯一のパティシエだ。笹野が産休、そして育休をとる間、新しいパティシエを雇わないといけないのだけれど、短期の雇用はなかなか難しい。かといってパティシエをふたり雇う余裕はなかった。  弦屋があるのは片田舎、それも山の麓だ。  田舎にパティシエがそう何人もいるわけがないし、通ってもらうにしても交通の便が壊滅的に悪い。正直この田舎にパティシエの笹野がいただけで奇跡だった。 「シッター雇ったほうが絶対早い」 「いや無駄でしょ、私しばらくしたらフランスよ?」 「えっ」 「え?」  モップがけを終えサブキッチンのシンクを磨いていた笹野が顔を上げた。弦音はそれを呆気にとられた顔で見返した。 「やめるの?」 「うん。言ってなかったっけ」 「聞いてない」 「わるいわるい」  ははっと笑う笹野に弦音は愕然とした顔を向ける。笹野はさらに笑った。 「僕のコテっちゃんは?」 「お前小鉄のなんなの」 「僕のコテっちゃんも連れていくの?」 「当たり前でしょ」  弦音の美しい顔が絶望に染まった。「青ざめても美形かよ」笹野が心底苛ついた様子で布巾をシンクに投げつけた。 「フランスって、旦那さん?」 「旦那じゃないけど、まあそうなるかもね」 「結婚するの?」 「さあ」 「さあって……まさかパティシエもやめる気?」  笹野はふざけたやつだけれど、パティシエとしての腕はたしかだ。  大雑把でふざけた性格なのにとても繊細なスイーツを生み出す。本当にふざけたやつなのに味も素晴らしく、弦音が惚れ込んでスカウトしたのだ。なのに。 「古傷がさあ」 「あれ、今まじめな話してるよね?」 「まじめに古傷が痛むのよ。パティシエって結構重労働じゃん? 正直ずっと立ってるだけでもしんどいのに、何キロもある小麦粉なんて抱えてらんないっての」  ぐ、と弦音は息を詰める。  笹野が痛めた膝を気遣いながら働いていることには気付いていた。だからメインキッチンに椅子を用意してこまめに座らせるようにしたし、雨が降ったら膝が痛んで転びでもしたら大変だと車で送るようにしていた。けれど、それでもまだ足りなかったのだ。  見た目も味も繊細な美しいスイーツを生み出す笹野が、現場から離れるだなんて。 「コテっちゃあん」  弦音はたまらず笹野に抱きついた。なのに笹野は「弦音おじちゃんにバイバイしましょうねー」なんて、どこまでもふざけている。
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