嫉妬のひとみ

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 笹野の母が迎えに来た。 「コテっちゃんってあんた」 「うん?」 「この子ハーフよね?」 「うん」 「まあまあ、お義母さん」 「いつまで父親面してんだてめえ」  という微妙な会話で笹野親子と別れ、弦音はひとりクローズ作業をこなしている。  さあさあ、と雨の音がする。本格的に降り出した雨はきっと、満開の桜をまだらにそぎ散らすのだろう。  笹野がパティシエをやめるなんて、弦音は考えたこともなかった。  弦音は笹野の生み出すスイーツが好きだ。お客さんだって、笹野のスイーツを目当てに通ってくれるひともいるくらい。そしてなにより、笹野が一番パティシエとしての仕事が好きで、そして誇りを持っていることを知っていた。  弦音は笹野のことを戦友だと思っている。笹野のパティシエの腕を誰よりも認めているのは自分だと思っているし、日々真摯にスイーツに向き合う姿勢を尊敬していた。  ここまでなにかに夢中になって、努力して、ましてやそれを形にできて評価をもらえるひとなんて、この世に数えるほどしかいない。  弦屋はアートギャラリーも兼ねているのだけれど、そこに展示している作品の制作者と笹野はとてもよく似ていると思う。  笹野の作るスイーツは芸術だ。  ひたむきに作品と向き合う背中。作品を生み出す手。その全てが美しい。  弦音の吐いた溜息が十二畳ほどの小さな店内に大きく響く。伸びをすればどこからかパキパキと音が鳴り、歳だなあ、とひとりごちた。  伸びの気持ち良さに身を任せ目を瞑る。  昔はずっと、すらりと伸びた美しい背中を見ていた。少し左に傾いた肩。細かく動く右手。キャンバスを遮る大きな背中。風で膨らんだレースカーテンが、その姿を悪戯に隠す。ずっと憧れを込めて見つめていた。飽きることなく眺めていられた。  春の教室。第二美術準備室。油絵のもったりとした独特の匂い。黒く汚れた右手の側面。爪の間に入った絵具。  自分から話しかけたくせに振り向く背中に、完成まで見たくないからと「動かないで」言えば「じゃあ来るなよ」と当たり前に返されて。「邪魔?」と答えを知っていながら尋ねたら「邪魔ではないけど」と予想した通りの返事をくれて。  懐かしい。懐かしい過去だ。  異常で、歪で、なにかが全部、ひとつずつずれているような奇妙な学園で過ごした日々。  ぐ、と胸になにかが詰まる感覚に、弦音はエプロンごと胸元を掴んだ。  雨がいけない。春の雨。記憶を呼び起こすトリガー。さあさあ、と葉を揺らし、花を散らす春雨。  ──コンコンコンコン。  唐突にもたらされたノックの音が束の間、雨音と、弦音の心音を消した。  ──コンコンコンコン。  連続したノック音。ノックは三回、と定着した日本で国際基準(プロトコール)マナーに則っているといわれている四回のノック音が硬質に響く。それだけでただでさえなにかが詰まっている胸にさらに無理やりなにかが詰め込まれる感覚がする。  まさか。と思いながらずっしりと重くなった胸を押さえて弦音は息を潜めた。  雨の音がする。花と緑の混ざった春の香りとともに。  ああやっぱり雨はだめだ。この香りも。なにもかもだめだ。視界が歪む。目の奥が痛む。胸が重い。  と、気を取られている間に凄まじい轟音が響いた。建物ごと揺れるような落雷の音。コンコンコンコン。慣らされる戸。  弦音は立ち上がる。笹野のふざけた態度を恋しく思った。今こそふざけて僕の背中を殴ってくれ。思いながら震える手で施錠を解き年季の入った戸をスライドさせる。  見えた外は真っ暗で、強い夜の気配が隙間から忍び込んできた。  春の香りだ。雨と、花と緑の濃い香り。  桜の薄いピンクの花弁(はなびら)が張り付いた黒髪から雫が滴り落ちる。ぽたり。足元にできた水溜りに落ちて染みを広げる様を弦音は頭の奥がぼうっとするのを自覚しながらぼんやりと眺めた。  過去に置いてきた、今はもう思い出になってしまった男が今、弦音の目の前にいる。  昔は同じくらいの身長だった。初めて会ったときはむしろ弦音のほうが視線が高いくらいで。なのに今は弦音が視線を真っ直ぐにすると薄い唇が目に入る。  大きくなったなあ。声に出さずに呟いた。  見上げた先、ずぶ濡れの男の鮮やかなグリーンアイズが、破裂しそうに脈打つ弦音の胸を貫いた。 「久しぶりだね──……優星(ゆうせい)」  十年前。桜の花弁とともに置き去りにした後輩が、あの日の雨を伴って、弦音の前に立っていた。
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