嫉妬のひとみ

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 しん、と静まり返った弦屋店内。  空調を切ったことにより静けさが強調され、時折風に乗って勢いをつけた雨が、閉められた窓のシャッターを叩く音が波のように押し寄せる。  濡れた黒髪から滴る水滴が優星の足元にぽたり、落ちて、水溜りの一部として消えていった。 「とりあえずこれで拭いて」  濡れ鼠の優星は戸の入り口に立ったまま俯いている。濡れて色を濃くしたスーツも相まって、そこだけ重力が何倍にもかかっているかのように重苦しい。  弦音の差し出したタオルを受け取る手は上がらない。  脱力した指先から雫が滴り落ちる。ぽたり。足元の水溜りは広がる一方だ。  節の目立つ長い指。その随分と男らしいフォルムにまた、弦音の知らない時の流れを感じた。  優星は俯いて微動だにせず、うっすらと青みが増した唇も動かない。音楽も空調も切った店内は変わらず静かだ。 「なにか飲む? 紅茶くらいなら出せるよ」  額にかかる黒髪。こちらを見ないグリーンアイズ。  焦点は定まっていないようで、床をぼんやりと眺めているだけに見える。それともそこに弦音には見えないなにかがあるのだろうか。  つられるように弦音も床に視線を落とした。ただの床があるだけで、フローリングの木目が弦音を睨んでいるだけだった。 「それにしても久しぶりだね。何年振りだろう」  こちらを睨む床から視線を剥がし、弦音は紅茶の準備のために優星に背を向ける。受け取り手がなかったタオルは近場にあるレジのカウンターへ置いた。  わざとらしくトーンを上げた弦音の声は寒々しく響き、実際に室温が下がっているのを感じて腕をさすった。 「もう十年くらい経っているのかな」  白々しい。弦音は思う。  忘れていない。覚えている。まぶたの裏に焼き付いて離れない、あの光景を。  弦音が最後に優星を見たのは今から十年前。ちょうど今みたいな春の日で、同じように雨が降っていて、けれど空は晴れていた。  天泣(てんきゅう)。狐の嫁入り。天気雨。大粒で、せっかく開花した桜を容赦なく叩く、そんな天気。  あの日、弦音の胸元には花があった。胸ポケットに挿さる青色の花。名前は忘れてしまった。もしかしたら初めから知らなかったのかもしれない。花弁が何枚も重なり、とても華やかな花だった。  正しく思い出せないけれど、あれは造花ではなく生花だった。強く触れれば崩れてしまうような繊細な花を胸元に飾るなんてとても贅沢だけれど、あの学園は生徒にかける金に糸目をつけなかったから。  あの日、弦音の胸に青い花が咲いていた日、弦音は優星の真摯な気持ちに背を向け、置き去りにした。 「……早く拭かないと風邪をひいてしまうよ」  手早くアールグレイを準備して、温めておいたカップにそそぐ。置き場を少し迷ってから、目の前の四人がけのカウンターへ置いた。  意味もなく喉が乾く。自分の分も入れてしまおうか。けれどそれだと話をする格好になってしまう。弦音には優星と話すことなどなにもない。  そもそも優星はなぜここへ来たのだろう。どうやってこの場所を知ったのだろう。あの学園を去って十年。優星とは一度たりとも連絡を取ったことはないし、あの場所にいたものと関わることを極力避けていたのに。  いまだ入り口で立ち竦むようにして微動だにしない優星の唇の色はさらに青みを増し、震えこそしていないけれどとても寒そうに見えた。  ふう、と細長く息を吐く。誰にも気付かれないように、ひっそりと。  なぜ優星がここを知ったのか、そしてどうしてここへ来たのかは分からない。でも彼はとても憔悴しているように見える。  冷えからの顔色の悪さの下に潜む目の下のクマや荒れた唇、少しこけているように見える頬は、明らかな疲弊の証。蒼白な顔はただ濡れて体温を奪われたからだけではないように見えた。 「ほら、ちゃんと拭いて」  仕方なしにカウンターから出て、レジカウンターに置いたバスタオルを取る。それを広げて濡羽色の頭に置いた。  随分と背が伸びた。昔は同じ位置にあったのに。それはそうだ。あのころの弦音はもう成長期も終わりかけ。それにくらべて彼は真っ只中だったのだから。  項垂れるようにしてある頭にそっとタオルを押し当てる。乾いたタオルはすぐに水分を吸い、しっとりと濡れ重さを増していく。  どうして。弦音はぐ、と唇を噛み締めた。  蘇る記憶がある。  仲間たちが集まった豪華な一室。騒がしく賑やかで、心地よかったあの空間。  誰かが休憩を求めて声を上げる。それを受けた誰かがキッチンへとお茶の準備に向かい、それに合わせて冷蔵庫から取り出されるスイーツに歓声が上がる。  賑やかな一室。気安い間柄特有の心温まる空気。輝いていた、思い出の一ページ。  ぐ、と目を瞑った。けれどそれは一瞬で、なにかを振り切るようにして再び目を開ける。  あれは過去だ。そう自分に言い聞かせ納得させる弦音の手に、ふとなにかが触れた。  髪を拭いていた弦音の手を止める、低い体温。弦音の手首をぐるりと一周する長い指。大きな手。  タオルに隠れていた顔がゆっくりと上がった。  覗くペリドット。美しいグリーンアイズ。薄青い唇が開く。 「弦音センパイ」  懐かしい声だ。低く、深みのある音。昔と少し違うのはほんの僅な掠れたテイストだけ。  目の前にある項垂れた頭。タオルで覆われたそれの下から床に吐き出される声。  弦音は静かに瞼を伏せた。 「俺だけがまだ、あそこにいる」  瞼の裏に蘇るのはたくさんの笑顔だった。  あの場所で目に映し、焼き付け、そして最後には置き去りした笑顔たち。  今はもう遠く感じる顔ぶれの輝かしい笑顔が弦音を責める。  優星の掠れた声が揺れるのに合わせ、弦音の瞼の裏にある笑顔たちも輪郭をなくすようにゆらゆらと揺れた。 「俺だけがまだ、あの学園を卒業できないでいる」  ああ、と吐き出した息に音が乗った。諦念の混じったそれが雨音に溶けてゆく。  あの場所。弦音の母校。そして優星の母校でもある郊外の山奥に建つ全寮制男子学園。  若くて、青くて、歪で、時が経ってもまだ恐ろしいほどに鮮やかなあの日々が、押し寄せる雨音に連れられて蘇る。  弦音の腕を握る優星の指が、弦音の回顧を戒めるようにきつくなった。  雨のむこうにある情景が、色を濃くしたようにみえた。
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