嫉妬のひとみ

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 朝日が眩しい。  ころころと変わる天気に振り回される春らしく、昨夜の嵐紛いの雨から一転、朝にしか感じられない澄みきった空気と、頭上には清々しくも柔らかい青空が広がっていた。  時刻は午前八時を過ぎたところ。弦音は快晴の空の下、腹の底に溜まる憂鬱を溜息として吐き出した。  弦屋の開店は午前十時からだ。でも店自体は八時から開錠している。いわゆる仕込み時間というやつで、パティシエの笹野は毎朝この時間から慌ただしく開店準備に追われている。  メインキッチンへと繋がるドアを開ければ今日も変わらずエプロンに小麦粉をつけた笹野が真剣な顔つきでボウルの中身をかき混ぜていた。 「笹野、お疲れ様」 「おう、はよ。どうした、早いじゃん」 「おはよう。なにか手伝えることがないかと思って」  微笑みながらロッカールームから出てきた弦音に「こんくらい平気だって」と笹野は苦笑した。 「今日は粉物の仕入れはないし、あんたが手伝えることはなんもないよ」 「混ぜるくらいなら僕にも出来るよ」 「『くらい』なんて言ってるうちは触らせねえよ」  笹野の眉間のシワを見て「厳しいなあ」とこぼしながらも、弦音は笹野の仕事に手を出すつもりははなからなかった。  ここは笹野の戦場だ。援護どころか足手纏い、戦力外を自覚している弦音の出る幕などないし、そもそも笹野の作品に余計な手出しをしてその美しさを損ねるわけにはいかない。  笹野の体調を気にしながらも、弦音はおとなしく在庫の点検を始めた。  笹野の言うとおり何キロもある粉物はまだ補充する必要はなさそうなくらい余裕があり、冷蔵庫の中をチェックしても牛乳や生クリームなども問題ない。  そもそも生鮮類を除いた材料の仕入れは毎日あるわけではないので、弦音の手助けは本当に必要なさそうだった。  無意識にため息をつく弦音に「どうした」と声がかかる。「ん?」と笹野を見るも彼女の視線はボウルに固定され、真剣な眼差しで泡立て器をカシャカシャと軽快なリズムで動かしている。 「ひっどい顔してんよ」 「……そう?」 「そう。自覚なし? 目の隈やばくない?」 「んー……」 「なんかあったの」  笹野が視線を上げないまま聞く。  素っ気なく聞こえるなかに心配の色が滲んでいるのがわかって、そんなにひどい顔をしてるのかな、と弦音は無意味に頬をさすった。  なにかあったか、と聞かれたら、あった。それもとびきり胸を抉る衝撃を伴って。  昨夜突然訪ねてきた優星は今、弦音の家にいる。  ──卒業できないでいる。  そう言ったきりまた黙り込んでしまった優星の手を引いて、弦屋の裏手に続く自宅へと招き入れた。  全身濡れているのに寒さを感じないかのようにぼんやりとされるがままの優星を風呂場に押し込み、ベッドを明け渡し、そして彼が目覚める前に逃げるようにして家を出た。  わからない。なぜ優星が弦音の居場所を知っていたのかも、なぜ訪ねてきたのかも。なにもわからない。  ただひとつはっきりとしているのは、優星はひどく憔悴していた、ということだけ。  まるで自失したままふらふらと彷徨ううちにたまたま辿り着いたかのような、そんな危うさがあった。もしかしたら彼自身、なんで弦音を訪ねたかを理解していないのかもしれないと思わせるように、どこか疲弊し茫然として、精神力そのものが弱っているような、終始ぼんやりとしている様子だった。  笹野は依然として作業を止めないけれど、弦音をそっと窺う気配を感じる。  弦音は苦笑して「ちょっと昔の知り合いが来ててね」と弱々しい笑みで笹野に応えた。その様子は儚く、憂いを帯びてさえ美しい。   「へえ……女か」 「ふふ、どうだろう」 「会いたくなかったの」 「……そんなことないよ」 「ふうん」  こちらに無理に踏み込んでこない笹野の素っ気なさがありがたい。  さすが戦友。思って、だから弦音は口を開く。 「高校の後輩なんだ」 「へえ。弦の母校ってどこだっけ」 「……言いたくないなあ」 「なんでだよ」  なんでって、リアクションが予想できるから。  弦音は諦念の浮かぶ溜息に声を乗せた。 「麗泉(れいせん)学園だよ。知ってる?」  そこで始めて笹野の手が止まる。  ボウルから顔を上げた彼女の目は大きく見張られていた。 「前からヤベエやつだと思ってたけど、やっぱりヤベエやつだったな」    予想通りの笹野の反応に苦笑を返して、弦音は美しく扇型を描く睫毛を伏せた。  過去の話だ。ずいぶん昔の歪な、優星がまだ自信に満ちた笑みを浮かべていた、遠い過去。 「はあああ、麗泉っていったらエリートのなかのエリート校じゃん」 「まあね」 「やべえな。男子校ってのは知ってるけど情報が少なすぎっていうか、秘密主義すぎてなんかもう都市伝説みたいになってるし……はああ、関係者初めて見た。やべ、感動してるわ。ねえ、やっぱあの学校ってすげえの?」 「はは、すごいよ。いろいろと」  カシャカシャ。作業が再開する音。それに耳を傾けながら笹野の背中を眺める。  白いシャツ。まっすぐに伸びた背筋。腕と連動してかすかに揺れる身体。 「あそこは特殊だったから」 「特殊? やっぱボンボンばっかって噂まじなの」 「まじまじ。八割はお金持ちだし、一般家庭の出の生徒を庶民って言うような場所だったよ」 「うへえ、こええ」  大げさなリアクションに弦音は小さく笑う。  そして目を閉じる。まぶたの裏に浮かぶのは、懐かしの母校。
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