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あれから、七年。
「天音、あれどこに置いたっけ?」
「あそこの棚の、一番上の引き出しだよ」
朝からバタバタと忙しなく準備をするのは、いつものことだ。
彼と一緒に暮らし始めて四年。
意外にも朝が弱くて、毎回遅刻ギリギリになってることにももう慣れた。
「はい、お弁当」
「ありがと。今日は、なるべく早く帰るようにするから」
「無理しなくていいよ。今日も頑張ってね、山下先生。
行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
幸くんは、獣医になった。
僕は、この家で幸くんと二人で暮らしていて、在宅の仕事をしながら幸くんの仕事のサポートをしている。
あれから色んな…色んなことがあった。
悲しいことも、嬉しいことも。
決して、順風満帆な七年とは言えない。
でも、この七年間は、僕にとって必要な時間だった。
赤川くんが、僕に会いにきてくれた後。
希が、何もかも上手く行っていると嘘を吐いて暫く会いに行っていなかった母方の祖父母のところに行って、今の家族の現状を、包み隠さず話した。
『何でもっと早く言ってくれなかったんだ』って、すごく怒られたらしい。
その日の夜、お祖母ちゃんから電話がかかってきて、泣いて謝られた。
僕のために泣いてくれた大人は、お祖母ちゃんが初めてだった。
それから、お父さんとお母さんが正式に離婚することになって、お母さんは、実家の近くの病院に入院することが決まった。
『娘を、この子達の母親に戻してやってください』
お母さんを病院に連れて行った時、担当の先生に、お祖母ちゃんは頭を下げてお願いした。
何度も、何度も。
最後に僕たちの方を振り返った時のお母さんの顔は…涙に濡れていて、その涙には、優しかった頃のお母さんの面影が、少し滲んでいるような気がした。
お母さんがいなくなって、暫くは、あの家で希と二人で暮らした。
暫くはぎこちない関係だったけど、定期的に来てくれたお祖母ちゃんのおかげで、徐々に希との距離は縮まっていって、高校を卒業する頃には、普通に話せるようになった。
高校を卒業して、僕は幸くんと二人で暮らすために家を出た。
そして希も、凪くんの家で過ごすことが増えた。
幸くんが大学を卒業した頃、退院したお母さんからお祖母ちゃんに連絡があって、希と僕と、三人で、再会することになった。
インターホンが鳴って、希が玄関の扉を開けた。
久しぶりに見たお母さんの顔は、健康的で、明るくて…あの動物園に行った遠い記憶の中の、お母さんと同じだった。
『ごめんね。今更、許されることじゃないかもしれないけど…本当に………ごめんね。天音、希』
お母さんに名前を呼ばれたのは…本当に久しぶりだった。
それからは、時々皆で集まってご飯を食べたりして…きっとまだ“普通”には、なれていないのかもしれないけど、少なくとももう誰も…苦しんでいる人はいない。
僕は今、あの日思い描いた幸せの中にいる。
その幸せのために、僕は生きている。
あの日幸くんが言った、自分のために生きるっていうのは…多分、こういうことなんだろう。
突然、扉が開いて、ふっと意識が現実に戻る。
扉の隙間から、さっき出かけて行ったばかりの幸くんが、また顔を覗かせている。
「どうしたの?」
「忘れ物!」
バタバタと忙しなく靴を脱いで、自分の部屋に戻っていく。
暫くして、幸くんは携帯電話を持って戻ってきた。
「よし。行ってくる!」
「うん。あ、幸くん!」
もう一つ、忘れ物だよ。
僕が差し出した左手を、幸くんの右手が叩く。
軽快な音が、玄関に一つ。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
これが僕たちの、幸せの音。
………END
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