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その日の帰り道、山下くんからの提案で、僕は山下くんのことを『幸くん』と呼び、山下くんは、僕のことを『天音』と呼んでくれることになった。
学校でも、お昼を一緒に食べられるようになって、今までより沢山、幸くんは自分のことを話してくれるようになった。
そんなある日のことだった。
「ねぇ」
その日の朝、玄関で靴を履いていた僕を、弟の希が呼び止めた。
「なに?」
「あの人、あんたの何?」
あの人…?
「いつも一緒にいるじゃん。あの人、あんたにとって何なのって聞いてんの」
それは、幸くんのことだろうか。
「何って…」
友達。
ただの友達。
でも、それは何だか凄く、軽い言葉のように聞こえる。
僕にとって幸くんはただの友達じゃない。
じゃあ、何?
「…友達だよ」
「…へぇ」
かけがえのない、大切な人。
でも今、それをそのまま希に話すのは何故か躊躇われた。
何か悪いことが起きるような、予感がしたから。
「どうしてそんな「行ってきます」
僕の言葉を遮って、希は家を出た。
リビングの方から小さく、「行ってらっしゃい」と言うお母さんの声が聞こえる。
僕には決して向けられることのない、優しい声と言葉。
「…行ってきます」
僕がこのまま、二度と『ただいま』を言わなかったとしても、誰も、気にも留めないだろう。
希の『ただいま』が聞ければ、それでいいんだろう。
幸くんは沢山、自分の家族のことを話してくれるけど、僕は、一度も話したことがない。
聞かれても、はぐらかしている。
今は、この歪な家族関係のことを幸くんに知られるのが一番怖い。
「兄貴!」
そう思っていたのに、どうして今こんなことになってるんだろう。
あの時、希が幸くんのことを聞いてきた理由。
どうしてこう悪い予感ばかり、当たるんだろう。
「あそこでシュート出来なかったのがやっぱダメだったよなぁ…」
「そんなことないですよ!結局先輩のあのパスがあったから勝てたんじゃないですか」
希が、幸くんと同じサッカー部に入って、二人の仲は突然、急速に深まった。
登下校中や休み時間、お昼の時間。
今まで二人きりだった空間は、希が入って、三人へと変わっていった。
僕は弟として、希が好きだ。
本当はもっと色んな話をしたい。
だから、希が今熱中しているものや、好きなものを、幸くんとの会話を聞くことで知れるのは嬉しい。
幸くんとも、希が幸くんを慕っていて、幸くんも希を後輩として可愛がっているならそれでいいと思う。
僕に、それを邪魔する権利はない。
でも…
「天音は小さい頃どんな子どもだったの?」
「俺は、赤ちゃんだったから覚えてないけど、兄貴小さい頃は凄く活発で、外で遊んでいる時に母さんから離れて一人で歩いて行って、野良犬に噛まれたことがあったらしくて、それから動物が嫌いになっちゃったんですよね」
「え…?」
幸くんの目が、驚愕に見開かれる。
どうしてそんなことをするのかはわからないけど、希は時折こんな嘘を吐いて、幸くんを傷つける。
「天音…それ、本当?」
嘘だよ。
僕は犬に噛まれたことなんかないし、動物は、幸くんほどじゃないけど、好きだ。
だけど、ここで嘘だと言えば、僕と希の歪な関係性が、幸くんに見抜かれてしまうかもしれない。
「…嫌いじゃないよ。苦手なだけ。動物園は、遠くから見るだけだから…」
「そうなんだ。なら、良かった…。でも、俺一人で突っ走っちゃうとこあるからさ、これからは、ちゃんと言ってよ?天音が嫌なことはしたくないし」
「……うん、ごめんね」
その日は、そこで話が途切れた。
希の意図はわからないし、幸くんの目に僕と希がどう映ったのかもわからない。
ただ、凄く嫌な予感がして…何か、とても悪いことが待っているような気がして、僕は、どうしようもなく怖くなった。
明日も、希は声を掛けてくるだろうか。
希は、明日もまた何か嘘を吐くのだろうか。
それは、どんな嘘だろう?
その嘘は、幸くんをまた傷つけるのだろうか?
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