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ヒリヒリと痛み続ける翼が、もう風に乗るのも困難なほどに、背から外れそうな激痛を放っていた。
「どこに……」
神の在りし都は、どこにあるのだろう……。
翼ある者――少年は、朦朧とする意識の中で、考えていた。
自分以外に、空を駆ける翼を持つ者はいない、と聞いている。どの種族も偵察用に開発を進めているが、飛べても、高みからの落下を助ける、という程度のもので、実際に自由に空を駆けることのできる翼人はいない。
だからきっと、自分が行かなくてはならないのだ。平和に満ちた国を探し、その国に降りて在る神に祈り、死すべき道しか残されていないこの大陸を救うために……。
だが……。もう意識が続かない。
翼がしなり、それを最後に力が抜けた。風に愛されていようとも、最早、落下は食い止められない。
下方には光が流れていた。
河だ。この先の海へと続いている。
海は越えられない。そう言われている。――いや、誰も越えたことがないと言っていた。海へ出ても、必ずこの大陸へ戻されるのだと。
意識が途絶え、派手な飛沫が川面に上がった。
神が降りて在る国など、本当に在るのだろうか……。
洞窟の中は、潮の香りで満ちていた。
湿った岩に碧い光が透き通るようにきらめき、陸と波の狭間では、銀鱗に包まれた美しい人魚が、洞窟の中に眠る少年を、興味深げに覗いていた。その豊満な肉体は魅惑的で、何とも悩ましげな姿だった。
そして少年は、黄土の肌に褐色の髪を持つ陸の種族で、顔や体の輪郭に、まだ子供らしさを残している。疲れきって眠っているのか、じっと見ていなくては判らないほどの、微かな呼吸しかしていない。
もちろんそれは彼に限ったことではなく、獣姿をもつ者の大半が、体を癒すときは呼吸数を減らして静かに眠り、体力が回復するのを本能で助ける。
だが、その本能は、近づく者にも敏感だった。
「……何度も見に来なくても、逃げやしない。――それとも、俺の使い道でも決まったのか?」
少年は目を開くでもなく、静かに訊いた。
言葉に敵意がこもってないのは、そこにいる人魚が、どう見ても戦闘向きでない、柔らかい白い肌をむき出しにしていたからである。背中や、魚の獣姿の下半身は銀色の鱗に覆われているが、真珠色の滑らかな胸は人の乳房と同じように柔らかそうで、心臓を守るための胸当てすら付けてはいない。戦士ではないのだ。もちろん、少年も戦衣はつけていないが――いや、それは飛翔の妨げになるからであり、戦士ではないという根拠にはならないが、彼女は――恐らく、自分を助け、怪我の治療をしてくれたのは、彼女であると思うから。
海草のように緑に透ける長い髪が、体に絡むこともなく陸に上がった。
「子供だと思ってたけど、やっぱり子供っぽい口を利くのね」
駄々っ子に苦笑するように瞳を細め、人魚は安心したように言葉を返した。
少年に戦意がないことにも安堵しただろうが、回復に向かっていることにも安堵したのだ。それくらいのことは、少年にも判った。
「なぜ……? 俺を手に入れたのなら、どこの種族だって利用したいはずだ」
やっと人魚を見て、少年は訊いた。
海から繋がる洞窟の中だが、波の乱反射で青く染まり、不自由ない程度に周りは見える。他に誰が隠れているわけでもなく、鉄格子も鎖も付けられてはいない。
「その翼は重いようね」
人魚は、少年の背にたたみ込まれている翼に、視線を移した。
実際の重さのことではない。その意味の重さのことだ。そんな翼を持っているから、そんな言葉しか吐けないのだと。
黙っていると、
「でもね、私にもあるわよ」
そう言って人魚が広げたのは、真珠色に透き通る、ヒレのような翅(はね)であった。銀色の鱗に覆われた背中から、飛沫を撒き散らして、きらきらと輝く。
「あ……」
きれいな翼だった。――いや、翅と呼ぶのだろう。陸の種族とは全く違う、幻想的な美しさだ。
少年は、初めて見る神秘的な海の獣姿に、ただ茫然と釘づけになった。
「なんてね。本当は、海の上を跳ねるのがやっとの翅。――あなたの翼とは違うわね」
真珠色の翅を背中に仕舞い、少し寂しげに、そして謝るように、人魚は言った。
「そんなことは――っ」
少年は素直に、自分の翼よりもずっと美しく、価値が在るように思えるその翅に、そして、それを卑下するような人魚の言葉に、身を乗り出して口を開いた。
「きれいで――とてもきれいなのに、そんな……」
飛べる自分の翼が、申し訳ないような気がした。
「やっぱり、優しい子なのね」
人魚は微笑み、
「私はセイレア。あなたと同じように、翼ある者を期待して創られた海人よ。残念ながら、種族の期待には応えられなかったけど」
きっと、辛い思いをしたのだろう。皆の期待を一身に背負い、その期待に応えられないと判ると、落胆する種族の心内を、一人、身に感じて。
そんな中、現れた翼ある少年は、自分が果たせなかった夢のようで、また、苦しみに近い生き物のようで、放っておけなかったのかも知れない。
彼女もまた、翅を持つが故に、毎日のように実験を繰り返され、記録取られ、実験動物のように扱われてきたのだろうから。
何故、こんな世界に……。
やはり、神の降りて在る平和な大陸を見つけなくてはならない。
「俺はカザハヤ。助けてくれてありがとう」
少年は頬を緩め、
「ここはどこ? 俺、行かなくちゃならないところがあるんだ」
と、怪我の具合を確かめながら、セイレアと名乗る人魚に訊いた。
うまく融合された獣姿を持つ人間の回復力は速い。獣姿を持たない人間の数倍の速さで回復する。もちろん、体力も数段上だ。
「外に出てみる? ――この洞窟以外、何もない小島だけど」
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