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「目を醒まして、カザハヤ」
小さな島々が点在する海域まで出て、セイレアは、銀色の鱗に覆われた半身――膝と呼ぶべき個所にカザハヤを抱いて、呼びかけた。
傷口から入ったであろう微量の毒を消すために、解毒剤を含ませなくてはならない。
「カザハヤ――」
肩を揺らそうとした時、白く柔らかい手がそれを止めた。
「……カザハヤ?」
セイレアは、その手が誰のものか知りながら、それでも信じられずに名前を呼んだ。少年とは言え、男の子の手が、それほどに白く、柔らかいなど、あり得るだろうか。
「私はカザハナ。――カザハヤは目を醒まさないわ」
白い手の主が、顔にかかる髪を掻き上げながら、静かに言った。
「カザハナ……? どういうことなの?」
ただ戸惑って、訊き返すことしか出来なかった。目の前にいるのは、確かに少女で、白い華奢な肢体をしているのだ。そして何より、鷹のような豪奢な翼が、冬の季に生え変わったかのように、雪と同じ白に染まっている。
「あなたにはお礼を言うべきかしら。それとも恨みごと?」
カザハナと名乗る少女は、言った。全てを見透かす瞳である。
セイレアには、何も言うことが出来なかった。
すると――、
「冗談です。ありがとう、セイレアさん。――でも、カザハヤは傷ついている。だから私が出て来たの」
カザハナは言った。
「当然ね……。私が傷つけたの。――でも、もう一度信じて、解毒剤を飲んで欲しいの」
セイレアは、剥ぎ取った鱗の上に乗せた、血の塊のような薬を持ち上げた。
「……それは、あなたの肝臓の一部?」
ほんの一口分のグロテスクな塊は、今まさに切り取られたばかりのものだった。何より、セイレアの腹部は深く裂かれ、今もまだ血が流れている。
「嘘はつかない。その通り、私の肝臓の一つを切り取ったものよ。研究所にある解毒剤も、私の肝臓を培養して増やしたもの。飲むのは気味が悪いかも知れないけど、毒を抜くにはこれしかないの。それに……私が死んだら肝臓にも毒が回って、もう解毒剤は取り出せなくなる……」
その言葉は嘘ではなかった。強靭に造られた体とはいえ、余りにも血が流れすぎてしまったのだ。すでに死期は迫っている。
「カザハヤが悲しむわね」
「言わないで。――さあ、早く。苦しいはずよ」
セイレアが促すと、カザハナは黙って口を開いた。
セイレアはその口元に鱗を運び、それに乗る肝臓の一部を口の中へと滑らせた。
喉が動き、カザハナがそれを飲み込んだ。
もし、ここにいるのがカザハヤだったなら、最後までそうすることを拒んだかも知れない。
だから――そう。だから、カザハナが出て来たのだ。
「すぐに翔べるようになるわ…」
セイレアは、ホッとしたように微笑んだ。気が緩んだのか、急速に体の力が抜けていく。
今度は、カザハナが支える番だった。崩れるセイレアを膝に抱き、
「カザハヤは、私のことを知らないの」
と、悲しげに言った。
「え……?」
「カザハヤだけでなく、一族の誰も……。私は遺伝子操作の過程で生まれた偶然の副産物で、予定外の不安定因子は決して歓迎されるものではないから、今まで一度も外に出て来たことはないわ。――だから、皆に見つかる前に、深い意識の中でカザハヤをそそのかして、神の降りて在る大陸を探し出すことにしたの」
「そう……。心配しないで。私の口から、あなたのことが漏れることはないわ……」
すぐに尽きる命なのだ。
「神はこの大陸を許さないかも知れない。それでもこのままにはしておけないの」
「そうね……。あなたは間違っていないわ……」
「ありがとう。…私の姿はどうかしら? 鏡も見たことがないの。セイレアさんのようにきれいになれるかしら」
少し恥ずかしげに、それでも訊かずにはいられないように、カザハナは訊いた。
「とてもきれいだわ……。その白い翼も、カザハヤによく似た面差しも……」
「ありがとう。本当は鏡を見れないの。あなたが見ているのは、私があなたの脳へ送り出している信号を映像化したもの。カザハヤの姿が変化したわけではないから。私にあるのは意識だけ」
「そう……そうな…の……」
きっと、平和な世界でなら、お茶でも飲みながら、二人で楽しくおしゃべりでもして過ごせたのだろう。他愛のない話をいつまでも。
セイレアは静かに瞳を閉じた。そして、その瞳が開かれることは、もうなかった……。
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