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片眼の死角
今から十年ほど昔、まだ小学生だった時のこと。
毎年春に行われる健康診断、その中の視力検査。わずか一年間で、ガクッと視力の落ちた年があった。
1.2から0.4という激減だが、ただし、視力低下は左目だけ。右目は、相変わらず1.2を保っていた。
当時、僕は読書にハマっていた覚えがあるから、その影響だったのだろう。もちろん普通に明るい場所で読むならば、目を悪くすることもなかったはず。しかし僕の場合、毎晩布団の中で、眠ってしまうまで二、三時間ひたすら本を読む、という習慣だった。
布団に入る時点で、室内灯はオフ。それよりも確実に明るさの弱い、枕元の電気スタンドだけで、本を読んでいたから……。これが原因だったに違いない。
両目ではなく左目だけの視力低下というのも、この説に合致する。仰向けで顔の上に本を掲げて読むのは手が疲れるから、ずっと横向きで――本を枕の隣に置く形で――読んでいたのだ。この姿勢だと、どうやら無意識のうちに片目だけ酷使することになるらしい。自分では気づいていなかったのだが。
ともかく。
そんな感じで目が悪くなった僕だったが……。
とりあえず右目は健在なので、あれから十年、大学生の今に至るまで、大きな不便を感じることは少なかった。眼鏡も必要ないくらいだった。
ただし。
自分では意識していないが、僕は基本的に、右目だけで物を見ているらしい。たまに「右目では見えないが左目では見える」という領域に意識を向けると、露骨にボヤけた感じになっている。
例えば、手前にいる人に半分重なるような位置に立つ、向こう側の人。「右目で見ると手前の人の陰に隠れているが、左目で見ると隠れていない」という部分がある場合、そこだけ、ぼんやりと見えるのだ。まるで陽炎のようだが、ちょうど手前の人の体の横に沿っているので、逆にそちらの輪郭を強調するような形になっていた。
そんな状態であっても、「はっきり向こう側も見えないと困る」という時は、少し自分の立ち位置をずらせば良いだけだから、それほど困りはしないのだが……。
中には、例外もある。
例えば今。
少し熱いくらいの、たくさんの照明に照らされた、木目調の舞台の上。
僕は、歌を歌っていた。
趣味でやっている合唱。所属している合唱団の、年一回のコンサートだ。
合唱というものは、耳を使って他パートの演奏を聴いて、それに合わせて音もリズムも奏でるわけだが……。
耳だけではなく、目も必要になってくる。歌う者と客席との間に立つ、指揮者の存在だ。その指揮棒の動きに、注目する必要があるのだ。
ちなみに、歌う者は指揮者を凝視するわけにはいかない。少なくとも、歌う者の体も顔も、指揮者ではなく客席、それも出来るだけ奥の方を向いて歌うことになる。『歌』の場合、人間の体そのものが楽器なので、近くに意識の焦点を当ててしまうと声が遠くまで飛ばないから、と言われているのだ。それが物理的に正しい理屈なのか、単なる気分の問題なのか、そこまでは僕にもわからないのだが。
ともかく、そんな感じで、視野の片隅で見ないといけない指揮者。しかも『合唱』なので、舞台の上には奏者がたくさん、二列にも三列にもなって並んでいる。一応、誰の位置からでも指揮者が視界に入るような並びになっているのだが……。
さあ、困った。僕の目は、普通の人とは、見え方が違うのだ。時々、指揮者の振る指揮棒が、僕の前の列の人に微妙に重なって、「左目では見えるけれど右目では見えない」という領域に入ってしまう。
だが一部ボヤけて見えるからといって、コンサートの途中で、立っている場所を勝手に変えるわけにもいかない。もう諦めて、『目』ではなく『耳』から入ってくる情報に基づいて「おそらく、こういう指示なのだろう」と推測することになる。これでは指揮者を見ずに歌っているのと同じだな、と内心で苦笑しながら……。
――――――――――――
コンサートの数日後。
大学からの帰り道で、僕は気になる女性を見かけた。
年齢は、僕と同じくらいだろうか。裾の広い、赤いワンピースを着た女性。ストレートの長い黒髪も似合っているのだが、前髪まで長めのため、少し顔が隠れてしまっているのは、玉に瑕という感じだった。
彼女は駅前の雑踏の中でも埋もれずに、独特のオーラを放っているように、僕には感じられた。しかし、他の通行人たちがそれに気づいている様子はない。そもそも、別に美人というわけでも美少女というわけでも、スタイル抜群というわけでもないのだから。
つい立ち止まって、その姿をジッと凝視しながら、ふと考えてしまう。
「なぜ僕だけ、こうも彼女のことが気になるのだろう? もしかして……」
彼女と僕との間には、運命的な何かが存在しているのだろうか。
そんなロマンチックな気持ちになった、ちょうどその時。
僕の視線に気づいたらしく、彼女がこちらを振り向いた。
その動きで自然に前髪がめくれて、あらわになった瞳には、奇妙な光が宿っているように見えた。
そして、
「……あら、見つけた!」
彼女の唇の動きは、そう言っているように思えた。
続いてニコリと、笑顔が口元に浮かぶ。
ここで僕も微笑み返したり、近寄って声をかけたり出来るのならば、そこから恋や交際に発展するのかもしれないが……。
「……!」
それほど女性慣れしていない僕には、とても無理な話だった。
わけもなく照れ臭くなった僕は、サッと視線を逸らして、その場から立ち去ってしまう。スタスタと、わざとらしいくらいに足早に。
「なんだったんだろう、彼女は……」
ぶつぶつと、独り言まで口にしてしまう僕。
顔に当たる風のおかげで、自分の頬が上気しているのを感じることが出来た。
その翌日の深夜。
友人宅での飲み会から帰る僕は、ほろ酔い気分で、暗い夜道を歩いていた。
一応は住宅街なのだが、一軒家ではなく学生向けのアパートが多い区域だ。僕が住んでいるのも、そうしたアパートの一つ。大きな通りからは少し奥まった場所に位置しており、この辺りまで来ると街灯も少なくて、夜ともなれば物騒に感じる時もあるのだが……。
今、この時。
ふと、背後に人の気配を感じた。
「いやいや、気のせいだよな……」
後ろを振り返ることもなく、自分に言い聞かせる僕。立ち止まるのも、かえって意識しているようで嫌だったので、同じペースを保ったまま歩き続ける。
しかし。
背中に感じる『気配』は、全く変わらなかった。僕を追うような足音だって、何も聞こえているわけではないのに。
さすがにゾッとして、振り向いてみると……。
僕のすぐ後ろに立っていたのは、昨日の赤いワンピースの女性。今夜は最初から、ニタァッという感じの笑顔を浮かべている。
「こ、こんばんは……」
今度は勇気を出して、僕の方から挨拶してみた。
幽霊とか不審者とかではなく、知り合いだったことに、まずはホッとしたのだ。いや、まだ『知り合い』というのは馴れ馴れしいかもしれないが、少なくとも見たことある女性なわけだし、それに、これから親しくなるのだという予感もあった。
「ふふふ……。今日は逃がさないわよ」
それが、僕の挨拶に対する彼女の返事。
そういえば。
彼女は灯りに照らされているわけではなく、むしろ陰の部分に立っているはずなのに、その姿はハッキリと認識できる。
なぜだろう? 運命の赤い糸で結ばれた相手だから?
そんな考えが頭に浮かんだところで、
「さあ、私と一つになりましょう」
彼女は、ガバッと大きく、両手を広げた。僕を抱きしめようとするかのように。
「えっ、こんなところで? それなら僕の家で……。いや、そもそも、会ったばかりで、まだ気が早いような……」
期待と驚きを胸に、口数が多くなる僕。
そんな僕の体に、彼女の両腕が巻きついた瞬間、僕は気が付いた。
なぜ昨日、あれほど彼女のことが気になったのか。
なぜ今、暗い中でもハッキリと彼女の姿が見えるのか。
「ああ、そうか。左目でしか見えない部分でも、右目と同じような見え方だったから……。だから雑踏の中で、特に目立っていたのか。それに今だって、本当に『目』で見ているならば、暗くて見えないはずだから……」
――――――――――――
賑やかな、昼間の街中。
駅前の横断歩道を、OL風の女性二人組が、おしゃべりしながら渡っている。一人は帽子の下からチャーミングな巻き毛が覗いている女性で、もう一人は、セミロングの黒髪と赤い上縁の眼鏡が特徴的な女性だ。
「ねえ、こんな話、知ってる? こういう人混みの中で、眼鏡を外しても見える人がいたら、それって幽霊なんですって」
「はあ? 何それ?」
「幽霊って目で見てるんじゃなくて、実際には『心の目』みたいなもので見るから、視力は関係ないんですって。だから眼鏡がある時も無い時も、同じように見える、って話」
「ああ、『外しても見える人』って、そっちの意味か。……それで? 私に試してみろ、と? 今ここで?」
「そう! ほら、私の視力、眼鏡なんて使うほど低くないから、自分じゃ実験できないし」
「いやよ! 外したら私、本当に何も見えない、ってレベルなんだから。それに、今ここで幽霊なんて見つけちゃったら、それこそ大変でしょう?」
「それもそうか。ハハハ……」
「やめてよね、そういう冗談」
二人は談笑しながら、僕たちのすぐ横を素通りしていく。それこそ肩がぶつかりそうな近くを、特に何も気にせずに。
おそらく、僕たち二人のことなんて、見えていなかったのだろう。ならば「眼鏡を外したら幽霊を見つけるかも」なんて話、杞憂に過ぎない。最初から見えている場合にのみ、眼鏡の有無で、幽霊だと確定するのだから。
一ヶ月前のあの夜。
「霊である私に、あれほど熱い視線を向けてくれたのだから……。あの時点で、あなたは私の、運命の男性に決まったのよ」
そんな理屈を振りかざして、彼女は僕に取り憑き殺した。僕まで幽霊にしてしまった彼女の理屈。いや、もう本当に、僕の都合を無視した一方的な理屈だった。
あの夜以来、僕は成仏も出来ずに、この場所に――彼女と初めて出会った場所に――縛られている。殺された場所とは違うが、これも『地縛霊』ということになるのだろうか。
僕と腕を組みながら、僕の横で嬉しそうに、ずっと笑顔を浮かべている彼女。赤いワンピースも長い黒髪も素敵だし、幽霊でさえなければ、僕だって幸せなのだが……。
最近、ふと考えてしまう。
もしも僕たち二人を認識できる人が現れたら、僕は彼女から解放されるのだろうか。その人に代わってもらえたら、僕は成仏できるのだろうか、と。
(「片眼の死角」完)
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