5.ソーシャルワーカー・川澄みずほ

3/3
42人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ
 この恭正会病院は、大津市の北端、比良山の麓にある病床数百五十の精神科病院であり、その内三十床がアルコール依存症専門治療の病床となっている。  病院自体は三十年余りの歴史があるが、本格的にアルコール依存症治療に取り組むようになったのは、依存症治療の経験豊富な正田医師が常勤医として入職してきた一昨年からだ。みずほも同時期に別の病院から転職してきており、入職のタイミングと依存症治療のスタートが同じだったというだけの理由で、未経験だったにもかかわらず、それ以降ずっと依存症関連のケース全般を任されている。  一階ロビーの長椅子に一人、本谷理佐は腰を下ろしていた。そこは午前の診察時間が終わり、他に待っている患者は誰もいない静寂の間だった。「お疲れさまでした」とみずほが声をかけると、理佐はゆっくりと立ち上がり、頭を下げた。 「どうぞ、掛けてください。気分はどうですか?」 「ええ、まあ――」と理佐は消え入るような声で応えた。 「明日から、通院プログラムでスタートですね」  みずほはそう言い、治療プログラムのスケジュール表を手渡した。理佐は不安げにこくりと頷く。通院治療の最もスタンダードな形は、飲酒生活から断酒生活へ、生活習慣を大きく変えていく意味合いをもつ毎日通院プログラムだが、理佐は週一回の通院からスタートすることになった。  理佐の住む瀬田から比良まで、片道一時間以上かかる。また母子家庭で、交通費の拠出もままならない。そうした事情を考慮しての治療スタートとなるが、これが上手くいかなければ、入院等の次の治療段階へ移行していく。その前に、現状では仕事を続けることは難しいだろうから、生活保護など経済支援も必要となってくるだろう。 「治療開始の時期は、みなさん、しんどい経験をされるんです。でも、いきなり生活が変わりますから、当然のことなんです。離脱症状による身体のしんどさもありますし、精神的なしんどさもあります。先が見えなくて不安なこともあると思います」 「――はい」 「でも必ず、断酒が続くことで回復できますから。毎日、小さな変化でも、遠慮なく先生や私たちに相談してくださいね」 「――はい」 「また、飲酒することがあるかもしれませんが、そのときは正直に言ってください。悪いことをしているわけじゃないんですから」 「――はい」 「やめようと思ってもやめられないのが、依存症という病気です。焦らずゆっくり、ちょっとずつ、取り組んでいきましょうね」  みずほはそう言って、笑顔を向ける。受診初日に心掛けていることは、とにかく本人に安心してもらうこと。それが、次の受診につながる。依存症は完治のない病と言われ、継続した治療が必要だが、しかし残念ながら、途中でドロップアウトしてしまう患者も少なくはない。  みずほは次いで診察時間と治療プログラムの時間についての説明し、さらに精神科に継続して通院治療を受ける際には、窓口負担が軽減される医療費の助成制度があることも説明した。いずれに対しても理佐は「――はい」と消え入るような声で応えた。心ここにあらず。表情は全く動かず、みずほは今までの経験から《これは長く続かないかもしれない》という予感がしていたが、しかしここで彼女を手放すわけにはいかない。彼女自身のため、そして娘のために。  先の見えない長い道のりになるのだが、一日一日の積み重ねが必ず、明るい未来につながっていく。まずは明日、また必ず病院に来てもらうこと。そこからだ。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!