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序.二〇二〇年五月八日
何で言うこと聞いてくれへんの! どこまで迷惑かけたら気が済むの!
深夜の静寂を引き裂く、母親――理佐の怒声。打撃音が響き、甲高い悲鳴が轟く。
急がなければ。
「ここを開けなさい!」
児童福祉司の松崎真綾は、チェーンロックのかかったドアの隙間から叫ぶ。
手前のキッチンと奥の八畳間を仕切るレースのカーテンに阻まれて、中の様子をはっきりと確認することはできないが、テレビのリモコンらしきものを振り上げている本谷理佐の姿だけはかろうじて目視できた。
一回、二回――繰り返しリモコンが振り下ろされるたび、鈍い打撃音が響き、そのたびにまた甲高い悲鳴が轟く。いくら角度を変えて覗き込んでも、理佐の娘、すずの姿は見えないが、もはや目視による安否確認などという原則論の段階ではなかった。とにかく、早く止めないと。
三十分前、匿名の虐待通報が大津市子ども家庭支援センターに入った。その対象者が、昨年九月からたびたび介入してきた育児放棄ケースである本谷親子だったため、真綾を含めた担当チームは速やかに現場へ駆けつけた。到着直後から怒声と悲鳴が長屋造りの家の外まで響いており、理佐がここまで激高し取り乱しているとは思っていなかった真綾らはちょっと戸惑ったのだが、しかしどんなに普段が穏やかでも、人間はタガが外れたら何をするかわからない。児童虐待の現場に入って三年、真綾は幾度となくそんな現場に立ち会ってきた。大人の都合で起こる虐待。子どもには、何の罪もない。
児相の同僚が、チェーンカッターを手にした警察官を引き連れて戻ってきた。これから、児童福祉法第二十九条及び児童虐待防止法第九条に基づき、すずの一時保護の強制措置に移る。これで二度目。とにもかくにも、子どもの安全確保が最優先。強制執行の際には親の激しい抵抗にあうこともしばしばで、ここは緊張の一瞬だった。
「お願いします」真綾が警察官と交代した、そのときだった。
「ちょっと! ちょっと待って!」
なんであんたがここに――?
真綾が思わず眉をしかめたのは、突如として平坂七瀬が姿を現したからだった。幾度となく虐待加害者である理佐に肩入れしてきた弁護士。
不毛なやり取りに陥る前に始めよう。いいから始めてくださいと、のどから出かかったその言葉を、真綾は思わず飲み込んだ。
息を切らして駆け込んできた七瀬が連れてきた人物に、真綾を含めその場にいた誰もが目を疑った。
――二〇二〇年五月八日。新型感染症の流行に伴う緊急事態宣言の最中。その日に至る一連の経緯は、昨年の七月に遡る。
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