3.児童福祉司・松崎真綾

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 虐待通報から二時間後、真綾はコスモス保育園にいた。虐待通報を受けた児童相談所は、四十八時間以内に子ども本人の状況を直接確認する必要がある。だが、今回は匿名通報であり、慎重にアクセスする必要のあるケースだ。  特に今回は、ネグレクトケースだ。身体的虐待は目に見えるが、ネグレクトは可視化されにくい虐待であり、その判定も難しい。また、匿名通報ということは、通報者の身元もその意図も解らないということだ。この二つの理由から、介入の程度を誤ると職権乱用と言われかねないケースではあった。  真綾はコスモス保育園園長の沖田と内密に、非公式の面談を行った。保育園は、たとえ虐待ケースの調査であっても、正式な手続きを踏まずに個人情報を提供するようなことはしない。これが保育所からの通報なら話がスムーズだったのだが。だが、その逆も然り。子ども家庭支援センターが虐待調査に動いていることを、対象者に漏らしてはならない。  結果的に、園の責任者とこうして、内密に、非公式に面談を行うことになる。沖田はたたき上げの保育士で、そのあたりの事情をよく心得た人物だった。 「匿名通報ですか――うちの園内では、虐待の兆候は確認していませんねえ」  沖田は個人ファイルを捲りながら言う。 「他に何か、変わったことはありませんか? もちろん、お話しできる限りで結構です」  真綾の方も、《匿名の虐待通報があったので情報を集めている》としか説明していない。  ネグレクト、飲酒、救急出動の件は、今のところクローズだ。  担任を呼んでくると沖田は言って席を外し、五分ほど待たされて、三宅由里という保育士が現れた。四十過ぎだろうか。目の下にクマができており、保育士の過労を体現したような女性だった。 「本谷すずちゃんの件ですよね。もしかして――ネグレクトとかですか?」  由里はいきなり核心をついてきた。同意したい気持ちを抑え、「なぜ、そう思うんです?」と真綾は尋ねる。 「いや、その――」と歯切れの悪い由里は、園長の顔色を窺っているようだ。園長に報告していないことがあるということか。 「ネグレクトと判定しているわけではありません。あくまで、匿名の虐待通報の真意を今、調べているところです。まだ、調査段階ですから、お話ししていただける限りの情報で構いません。もちろん、虐待認定となって公式な介入が開始されたときには、また改めてご協力をお願いします」  できる限りでいい、と言いつつも、正式介入後のことを加えることで、《いずれにしても情報共有が行われる》ということを匂わせる。想定通り、由里は「オフレコでお願いしますね」と声を潜めて言った。 「実は、先月から、すずちゃんのお弁当が手作りからお惣菜の詰め合わせに変わったんです」 「先月からですね。具体的にはいつからですから?」 「上旬です。日付は覚えていません。保育記録を見れば解りますけど。それから、これは記録には残していないんですが、ウチの保育士が、ショッピングモールのフードコートで、閉店間際の時間に、すずちゃんが一人でいるのを見たと言ってたことがあって――」 「駅前のショッピングモールですね?」 「はい。そこで、お母さんが清掃のパートをしているはずなんです。仕事が終わるまで、職場で待たせていたのかもしれませんけど、小さな子ども一人で、そんな時間に待たせておくなんて――」 「間違いなく、本人と確認したんですか?」 「いえ、そのときは声をかけなかったらしくて。だから絶対に本人かどうかは解りません。でも、実は私も、偶然にお母さんの同僚の方がすずちゃんを連れているところと出くわしたんです。夜でした。その方は、たまに預かってると仰られていましたが――」  ネグレクトと判定するには弱い情報だ。その他、急激な痩せや栄養失調、体調の急変などは見られないとのことだった。母親の問題行動も特になし。ここで聞く限りでは、少なくとも緊急性の高いケースではなさそうだ。  そして真綾は由里の案内で、すずのクラスへと向かった。ちょうどお昼ご飯を食べ終わったところで、子どもたちの多くは運動場へ出て走り回っていたが、すずは教室で独り、絵本を読んでいた。外見には異常なし。あまり友だちが多い方ではないんですと由里は言った。  一心不乱に絵本に向かうすずは、他のものを寄せ付けない硬い壁に囲まれているように見え、真綾は一抹の不安を覚えた。
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