5.ソーシャルワーカー・川澄みずほ

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5.ソーシャルワーカー・川澄みずほ

【二〇一九年十月】 「――ですから、先ほどから何度も申し上げているとおり、現時点で入院は不要と判断したまでです」 《それでは困ります》  困ります、と言われても、それは電話の向こう側の、子ども家庭支援センターの一方的な都合でしかない。こっちだって困る。川澄みずほは受話器片手に、さらに粘り強く説明する。 「アルコール依存症は病気です。その治療として通院と入院の選択肢があって、本谷さんは通院を希望し、入院は拒否しています。ドクターも、現時点では通院が適切と判断しているんです。そもそも治療の最終的な選択権は、患者本人にありますから」 《ですが、彼女が入院治療を受けることが、一時保護中の娘さんを返還する条件になっているんですけど》 「依存症は完治のない病気ですから、治療の完全終結はありません。完治がないからこそ、回復のために治療を継続することが必要なんです。入院したら治療完結というわけにはいきません」 《そうは言っても、これまで彼女がやってきたことを考えれば、入院させないと――》 「入院は懲罰ではありません。返還条件に指定したのはそちらの勝手でしょう」  沈黙が返ってきた。しまった、言ってしまった。みずほは頭を抱える。つい余計なことを言ってしまうのが悪い癖。電話の向こう側にいる松崎真綾という頑固な児童福祉司は、しばしの沈黙のあと、明らかに気分を害したという口調で《では、こちらで再度検討いたします》と言うがいなや、叩きつけるように電話を切った。 「切られた――」  みずほは思わず舌打ちして受話器を置いた。いつの間にか背後に立っていた相談室長が「また他所と揉めたんか」と声をかけてきた。 「お前はそれでええんかもしれんがな、病院としての立場も考えて物言わんと。連携は今回だけじゃないんやぞ」  みずほは「そうですよね、すいません。でも、つい」と笑ってみせる。  室長は呆れたようにため息をつき、「できひんことは言いや。何でも助けてやるさかいな」と言い、みずほの肩にポンと手を置いてから、自分の業務に戻っていった。無意味な行動。セクハラ。相談室には他に二人の女性のソーシャルワーカーがいたが、今日もまた常態化している見て見ぬふりだった。五十代で妻子持ちの室長が、自分に好意――否、性的に興味を持っていることを解っている。だからこそ、さらっと嫌味のない笑顔で振舞っておけば、大抵のことは赦してもらえることも承知の上での作り笑いだった。最初は不本意だったが、この病院に勤めて二年、不本意な行動も継続するうちに習慣化し、やがて条件反射と化していく。なるほど、こうして女性は抵抗の意思表示をするタイミングをどんどん逸していくのだと、みずほは身をもって体験していた。  ――さて。それにしても頑固な相手だった。みずほは先ほどの、子ども家庭支援センターとのやり取りを反芻する。松崎真綾の押しの強さは、信念が強いとも言えるのだろうが、それは頑なで融通が利かないことと表裏一体、支援者にとっては諸刃の剣だ。互いに社会福祉の専門職であり、ついでに同年代のはずだが、精神科病院のソーシャルワーカーであるみずほとは、ずいぶんと考え方が違う。 l
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