6.弁護士・平坂七瀬

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6.弁護士・平坂七瀬

【二〇一九年十二月】  ――預金通帳見せて。残り一〇万円? これやったら多すぎるなぁ、もっと減ってからでないと申請できひんから。もっと減らしてからやな。その前に、まだ働けるやろ、若いんやから。何で生保申請する必要があるんや。女やったら、何ぼでも稼ぎ方があるやろ。子どももいるんやし、自立した生活をしなあかんで――  先月末、本谷理佐に向けてそんなふうに言ってのけたという生活保護課の窓口担当だが、しかし今日、七瀬と理佐の目前にいる当人はそんな素振りを一切見せなかった。役所というところは権威に弱い。  七瀬自身は権威や肩書を振りかざすのは好きではないが、しかし自分の意図よりはるかに、胸の弁護士記章は輝いて見えているらしい。少しでも失礼なことを言うならば徹底的に糾弾しようと思っていた七瀬にとっては肩透かしだったが、ことが荒立たないのならそれに越したことはない。だが、その白髪交じりの担当者がいくら懇切丁寧に対応しようとも、しかしそれで彼女を傷つけたことがなかったことになるわけではない。平坂七瀬は当然のように、一切の手心を加える気はなく、油断せず厳しく目を光らせていた。  生活保護申請を再々断られている患者がいる、と旧知のソーシャルワーカー川澄みずほから相談が来たのが昨日。七瀬はその日のうちに当該患者である本谷理佐との面談をセッティングし、今朝一番、早速役所へ同行したのだった。  生活保護は申請が原則だ。申請を受理した役所が、当人が受給要件を満たしているかどうかの審査を行い、受給可否が決定される。生活保護は生活に困窮した国民が最後に頼るセーフティーネットであり、申請の権利も受給の権利も誰しもにある生活保護制度だが、偏見や無理解も多分に横行しているのが現状で、みずほによると、本谷理佐自身も申請にはかなり抵抗を示したとのことだった。  結局、生計維持が困難になった現実に背中を押され、やっとのことで決断したものの、いざ申請に来てみると、今度は役所側に申請受理を拒否された。しかも本人を中傷するような態度で、だ。理佐の精神的なダメージは測りしれない。  偏見や無理解は、申請を受理し審査する役所内にも蔓延っているのだった。生活保護課の職員は全員、福祉の理念を理解している専門職というわけではない。異動先を選べない公務員として、福祉の「ふ」の字も理解しないままに配属され、事務的に業務をこなしている者もいる。この窓口係のように、保護受給者や申請者に対して不必要に冷たい態度をとる者もいる。  また近年、自治体として生活時保護受給者の全体数を減らすため、保護申請者に難癖をつけて追い返し、申請をそもそも受け付けない、所謂『水際作戦』も横行している。建前では『不正受給者対策』と言っているが、それは申請受理後の審査で判断すればいいだけの話であり、申請そのものを受理しないのは、要は《役所には審査能力がない》と自称しているようなものだ。  とにかく、申請不受理は、これは明らかに人権侵害であり、弁護士として黙っているわけにはいかない。  七瀬が勤める織田法律事務所にも、これまでに度々相談が寄せられ、七瀬はそのたびに当事者とともに役所に赴くのだった。わざわざ法的な係争手続きを踏まずとも、弁護士が同行するだけで、法的に根拠のない『水際作戦』はあっさりと撤回され、多くはそのままスムーズに手続きが進むのだから、やはり役所というところは権威に弱い。  書類を書く理佐の手が小刻みに震えている。
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