6.弁護士・平坂七瀬

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 まあ、訴訟に発展すれば当事者の金銭的、精神的負担は大きくなるのだから、そこに至るまでに、弁護士が動いて解決するならそれに越したことはない。  ただし、本人に利することが事務所の利益になるとは限らないところは、ちょっと頭の痛い話ではあった。織田法律事務所は『相談料、初回無料』『経済的事情により、費用相談応じます』という《困っている人にこそ、人の優しさを》との方針のため、同行の交通費を支払ってもらえればいい方で、ほとんどタダ働きに近い仕事でなのだった。事務所的には割に合わない仕事だが、しかしそれで一人でも助かる人がいるのなら、弁護士冥利に尽きるというところだった。  理佐は言われるがまま、書類の必要事項に記載をし、審査のために必要な提出物をメモしていた。ボールペンを握る指は細い。窓口担当から発せられる曖昧で不正確な細かいニュアンスの一言一言に、その都度あえて口を挟みながら約一時間。市役所を出た本谷理佐は、見るからに疲労困憊だった。 「審査、ちゃんと通りますから。大丈夫ですよ」  七瀬の言葉に、理佐は弱々しい微笑みでこくりと頷いた。依存症のことは正直よく解らないが、それでも理佐がかなり深刻な渦中にいることは容易に察しがついた。  七瀬は静かに、胸の弁護士記章に手をやった。弁護士としての自覚を持ち、気持ちを静めるためのルーティーンだ。  私諸々の事情で縁もゆかりもなかった京都の、小さな法律事務所に移ってきて、早一年。生まれ育った東京を、初めて一人で離れて以来、心細さもホームシックも感じる暇がないほどの多忙な日々だった。しかし心は東京時代よりはるかに充実していた。  東京では十数名の弁護士を抱える大きな事務所に勤めていた。そこでは相談を受け付ける段階で、お金になるケースだけが選別され、与えられた仕事をただがむしゃらにこなす日々だった。やがて、ある事件に関わったことをきっかけにして退職を決意。知人の伝手で織田法律事務所に移ってきたのだったが、ここでは東京時代とは打って変わって、どんな依頼も選べない、断れない。  それは事務所の売り上げになるとかならないとか、そういう次元の話をしていられないほど、今まさに困っている人が藁をも掴むようなすがる思いで目の前にいる。その人に対して、弁護士として何か助けになるかもしれない。できることがあるならば法律家としてできる限り動かなければならない。多分、東京の事務所なら見向きもしなかったような、社会的に立場の弱い人々の抱える不条理に直に触れ、無力さを突き付けられることだってあるが、そのときこそ、胸の弁護士記章に手をやり、弁護士という職に抱いた理想と使命感を再認識する。かつては大きく揺らいだ自分の信念は今、しっかり自分を支える一本の太い軸となっていた。  七瀬が現在抱えているケースのほとんどは、貧困問題だ。法律家が請け負う相談において、暮らしの問題のほとんどの割合を金銭問題が占める。そして、お金のトラブルは人間関係をも狂わせる。それが家族のような親密な関係であればあるほど、狂いは大きくなり、憎悪が増し、悲劇を生む。生活に困窮したために働きすぎて身体を壊した者。精神的に追い詰められ、幾度となく自殺未遂を繰り返す者。貧困家庭の虐待、等々。貧困が人間の心の豊かさを侵して、奪っていくしまう現状と幾度となく直面させられ、法律家としての限界を突き付けられるとともに、だからこそ医療福祉関係の専門職との連携の重要性を実感していた。そういう意味では、ソーシャルワーカーである川澄みずほとの関係はありがたいものだった。  日は射していたが、少し雪がちらついてきた。七瀬と理佐は、市役所前のバス停の冷たいベンチに腰かけていた。時間的な効率を考えればタクシーを選ぶべきだったが、ここは経費削減。人道的支援は出費が嵩む。理想を全うしているという仕事の充実感はあれど、しかしお金のことに関してだけは、七瀬自身も一気に現実に引き戻されるのだ。 「家族に」理佐が不意に口を開く。「養ってもらえとか言われませんか?」
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