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「そうなんです――」
由里の戸惑いも、ひいては理佐の背景など一切関係ないと言わんばかりの真綾が、役所組を代表して強く「そんなことより」と一言発していた。
「ここは、母親に何があったかより、子どもの今後を考えるための場です」
そうしてピシャリとはねつけた真綾だったが、七瀬もとっさに「これは家族の問題でしょう」と切り返していた。
「そうです。しかし問題の中心は、子どもの生命をいかにして守るかです。子どもにとって、家族と、母と暮らすのが最も幸せとは限らない」
「そうかもしれませんが、すずちゃんにとって母親は、理佐さんただ一人です。養育者の役割には代わりがいても、母親という存在は誰にも代わることはできませんよ」
「だからと言って、彼女の虐待を許すわけにはいきません。母親と一緒じゃない方が、幸せな子だっています」
「それがこの二人に当てはまるかどうかは、私たちが今、この場で決めていい話ではないでしょう」
「じゃあどうするんですか! 裁判で決めればいいんですか? そう、法律家は、裁判所の決定は絶対ですもんね」
真綾の挑発。
七瀬は胸の弁護士記章に手を添えた。これが私に勇気をくれる。
「これは、二人の人権の問題です。ここは加害者を裁くための場ではないでしょう」
一触即発の空気は会議全体に伝播していた。真綾に味方する役所組の冷たい視線、戸惑いを隠せない教育保育関係者、そして七瀬の孤独。そんな空気をとりなすように、みずほが手を上げた。
「理佐さんには母親としての課題があって、すずちゃんには彼女を取り巻く様々な問題があって、このケース、何か一つの解決では済まない、複雑な問題だと思うんです。それを打開するために、こうしてそれぞれの立場で集まっているのですから――」
みずほの発言は、慎重に言葉を選んでその場を鎮めようとするものだったが、しかし、そんなことはここにいる誰もが解っているのだ。その上で、誰もが立場を譲れないでいるからアンバランスなのだ。
「それは大前提の話です」と真綾は言い切る。その本心はおそらく、《そんなのは所詮、綺麗ごとだ》と言ったところだろうが、さすがにそこまでは言ってこれ以上こじれたくない、という計算もあるのだろう。真綾はさらに言葉を継ぐ。
「しかし、子どもの生命がかかっている、重要で緊急性のある問題なんですよ、これは。複雑な問題を解きほぐしている余裕はないかもしれない」
「だったら」と七瀬が声を上げる。売り言葉に買い言葉だった。
「すずちゃんを今すぐにでも保護すればいい話でしょう。子家センにはそういう強制的な権限があるんですから」
「それはできません」
「どうしてですか。子どもの生命に関わる緊急性のある問題なら――」
「虐待の明確な証拠がないからです。痣や傷などの身体的虐待を受けている証拠がない限り、緊急且つ強制的な介入はできません。あるいは再度、母親の養育能力が欠如していることが証明されるか、です」
子家センも役所の規則に縛られているのは解るが、しかしその言い分を全面的に手放しで納得しろと言うのはおかしい。「だから入院を推すわけですね」みずほが割って入ってきたのだが、その顔はすぐしまった、つい言ってしまったというふうな表情に変わった。しかしもはや後の祭だ。
「とにかく、虐待の兆候があればすぐに子家センに連絡をしていただくこと。これが皆さんに徹底していただきたいことです」
「それこそ当たり前の話でしょう――」
七瀬が言ったその時だった。管内のスピーカーから『蛍の光』が流れ出し、十七時を告げていた。
応酬が途切れた瞬間を逃さず、「あの、私たち、そろそろ園に戻らないと」と園長が言い、「確かに、そろそろ閉庁の時間ですし」と子育て相談係の主任これ見よがしに腕時計を覗き込んだ。
その間にみずほは、七瀬の耳元で、「こんなふうにするために呼んだんじゃないんやで、解ってる? 私らはこれからも、役所と関係していかなあかんねんから」と普段使いの関西弁で囁いた。それからペロリと舌を出して、「まあ、私が言えた義理じゃないけどね」と笑う。七瀬も自分の高ぶる気持ちを静めるために、ゆっくりとほほ笑んだ。
そうして何の結論も出ないままに終了となったケース会議の場を辞し、七瀬はみずほに誘われるまま、大津駅前で夕食を一緒にすることになったが、その道中、思考は会議の延長戦だった。昨年七月に、いったい何があったのか。
そして、本谷理佐は、どんな秘密を抱えているのか――調査の余地がある。
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