8.訪問看護師・浜永知恵子

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8.訪問看護師・浜永知恵子

【二〇二〇年三月】  感染症が流行しているこの時期に、連絡もなく尋ねてくるなんて、非常識でしょう。  お帰りください。話すことは何もありません。  玄関から聴こえてくる押し殺した声は和歌子のものだ。珍しく、誰かが尋ねてきたらしいが、どうやら招かれざる客だったようだ。相手の声は若い女性のようだったが、内容までは聞き取れない。  浜永知恵子はお薬カレンダーに内服薬のセッティングを済ませ、本谷浩美を見やる。六十五歳という実年齢よりずいぶん老けて見えるのは、髪も肌も充分に手入れや清潔が行き届いているとは言えない状態だからだ。  訪問の三十分ほど前、眠前服用の睡眠薬を昼食後に飲んでしまったらしい浩美は、今はソファに座ってうつらうつらしている状態だった。このところ、いつもだった。誤服用のため、眠剤だけが早くなくなってしまう。和歌子曰く、《母がいつも間違えて飲んでしまう。私はちゃんと注意している》とのことだったが、知恵子はその言い分を鵜呑みにはしていなかった。精神科専門の訪問看護師を十年もやっていれば、幾度となく経験してきたことだが、家族は嘘をつく。  若年性認知症である浩美は、暴言や暴力など他害行為はないものの、徘徊行動があり、目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう。事故のリスクが高い。コミュニケーションも、表面上は成立しているように見えても、内容はほとんど理解できていない。知恵子のことも、どこまで解っているのか。 《完全に壊れているように見えないから、家族は大変やろねえ》と他人事のように言ったのは浩美の主治医であり、知恵子が勤務しているフラワー訪問看護ステーションに訪問指示を出している精神科病院の谷井というドクターだ。患者のことを《壊れている》と表現することに抵抗感を抱くものの、しかしドクターの言わんとするところは理解できる。  認知症に限らず、精神科の疾患は、その病そのものを目で見ることはできない。見えるのは、当事者の行動だ。浩美の場合は徘徊であり、それを最も身近で世話しているのは和歌子であり、彼女の負担は実際に経験している者でなければ解らない。しかも、身内の介護は精神的負担が大きい。健康なときを知っているが故に、衰えてしまった身内の姿を認めることができなかったり、あるいはこれまでの家族関係の歪みが介護関係に悪影響を及ぼしたり、そしてそれらの行きつく先が身内による介護虐待だが、虐待は直接的な暴力だけではない。  眠剤がなくなっているのは、浩美の自発的な誤服用などではなく、和歌子がわざと飲ませているに違いない。昼間に覚醒している浩美は徘徊を繰り返す。それをずっとそばで見ていられない和歌子が、浩美の行動を抑制するために、わざと眠剤を飲ませているのだ。  これが事実なら、立派な虐待行為だが、しかし証拠がない。しかもよりによって、主治医の谷井は、患者本人や家族の希望するがままに薬を処方するタイプのドクターなのだった。通常、精神科の薬は特に、厳格に日数管理をして処方するものだが、中には『薬屋』と化した質の低いドクターもいる。運悪く、浩美の主治医はそういうタイプなのだ。 「まだ終わらへんのですか?」と和歌子が戻ってくるなり悪態を吐く。知恵子は「今、終わりました」と言い、立ち上がる。 「屯用の睡眠薬がもうないんですけど」 「そんなん、解ってるわ。先生に言うて、貰いに行かな」 「眠剤の飲み過ぎは危険です。転倒のリスクも上がるし、せん妄が出現することもあります。もう少し、お薬の管理の方法を考えないと――」 「うるさいなあ」と和歌子は舌打ちをした。「こんなにうるさく言われるんやったら、訪問看護なんか頼まんかったらよかったわ。ほら、仕事が終わったんやったら帰ってください」  知恵子は、今日はここで引くことにする。訪問看護として介入そのものができなくなる方が、浩美にとってリスクが高い。この家庭には、定期的に第三者の介入が必要だ。しかし、ドクターがアテにならない状況では、看護師にできることは限られている―― 「すみません」  家人の見送りなく家を出たところで、一人の女性が声をかけてきた。長身で、顔半分はマスクで覆われているが、ちょっと人を威圧するような目力のある瞳が特徴的だった。反応に迷う知恵子に、彼女は名刺を差し出した。 「私、弁護士の平坂と言います。少し、お話をお聞きしたいんです」
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