8.訪問看護師・浜永知恵子

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 たしかに名刺には『織田法律事務所 弁護士 平坂七瀬』と書いてあるが、目の前の人物が間違いなくその当人かは解らない。身分も名前も嘘かもしれない。以前、訪問先の独居の高齢者宅で、悪徳訪問販売のセールスマンと出くわし、追い返したことがある。そのとき置いて行った名刺も、嘘八百の内容だった。 「次の訪問がありますので」こういうときは遮断するに限る。それでも平坂七瀬と名乗る女性は、「訪問ヘルパーさんですか?」と食い下がってきた。 「いえ、訪問看護師です」 「今がダメなら、あとで連絡するので、名刺とかいただけませんか?」 「切らしてます。では」  知恵子は言うなり、表に停めておいた自分の原付バイクにまたがった。本当は社名の入った軽自動車で訪問したいのだが、《精神科訪問看護なんて書いてある車で来ないでください》というのが和歌子の要望だった。高槻市の北部は区画整備された住宅街が拡大している地域だが、さらに山間に進むと、田園風景の広がる、古い集落が残っている。本谷家はそんな集落の中の一軒であり、そうした地域ではどうしても精神科というワードがネガティブに捉えられがちだ。  知恵子はまだ食い下がろうとする平坂七瀬を無視してバイクを発進させた。  それから夕方までに五件の訪問を済ませ、事業所に帰り着いたのは十八時前だった。東京五輪、中止ですって。出迎えてくれた事務員は、開口一番そう言った。そうやろと思てたわと、知恵子は応じ、自分のデスクに腰を下ろす。  お疲れさまでした。お先に失礼します。お疲れさまでした。  その日の訪問件数により、定時で帰る者と残って書類仕事に向かう者とに分かれる。知恵子は、今日は後者だった。  事業所の電話が鳴り、事務員が出る。緊急事態であれば、これから再訪問に出なければいけない場合もある。私の担当じゃありませんように。知恵子は内心で祈っていたが、事務員は「浜永さん!」と声を上げた。 「はーい。電話? 誰?」 「弁護士さんですって。平坂さんって言ってます」  患者ではなかった。平坂? 本谷家の前で会ったあの女性か。どうして事業所の番号を知っているのか。無視するか――しかし、少しでも関わってしまった事実がある。もしもあとあと問題になるような人物だったらと思うと、とりあえず全く無視してしまうのは良くない気もした。 「もしもし、変わりました。浜永です」 《突然すみません。本谷さんの家の前で会った平坂です》 「どうしてここが解ったんですか?」 《昼間に会ったとき、ユニフォームに事業所名が書いてあったので》  なるほど、そう言うことか。「で、何の御用ですか?」と知恵子は尋ねる。 《本谷さんのことで伺いたいことがあるんです》 「どこの誰か解らない人に、話せるわけないでしょ。それに、私たち、守秘義務もありますから」 《それは解っています。私の身分は、名刺のとおりです。京都弁護士会に聞いてもらっても構いません。守秘義務のことも承知しています》 「だったら――」 《私、本谷理佐さんの件で動いています。浩美さんの娘さんです》  和歌子の妹か。そう言えば、会ったことはない。 《その件で、今日、浩美さんと和歌子さんからお話したいことがあったのですが、門前払いを喰らいまして》 「ええ。聞こえてましたから」 《浜永さん――具体的なことは答えられないことは解ります。ですから、浜永さんが知らないことについては、そのまま『知らない』と、ご存知のことについては『言えない』と応えてください。具体的なことは結構ですから、それだけでもお願いします》  妙に切羽詰まった声だ。何をそんなに必死になっているのか。
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