8.訪問看護師・浜永知恵子

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 知恵子が了承する前に、七瀬は最初の質問に移っていた。 《昨年七月以降、本谷浩美さんは施設に入所していた事実はありませんよね?》 「知りません」知恵子が関わりだしたのは昨年の十一月末からだ。浩美が精神科病院を退院した直後からだ。 《浩美さんは去年の八月末から十一月末にかけて、精神科病院に入院されていましたよね?》 「言えません」知っているじゃないか。たしかに、八月ごろから徘徊癖が酷くなり、路上で転倒したり、一人でバスに乗って出かけた先から自力で自宅に帰れなくなるなど、問題が多発していた浩美は、その時期、精神科病院に医療保護入院となっていたのだ。そう言えば、医療保護入院はドクターの判断と家族の同意のもとに行われる強制入院だが、入院同意をしたのは本谷理佐だったと聞く。しかし退院は、《精神科に入院させ続けるのは可哀そう》という和歌子の意向だったらしい。病院から提供された事前情報を思い出した。 《本谷浩美さんと和歌子さんの関係は良好ではありませんよね?》 「言えません」たしかに、良いようには見えない。 《本谷理佐さんが実家に戻ってきた様子はありませんか?》 「知りません」 《浩美さんは――》  口を挟ませない矢継ぎ早の問いは、さすが弁護士と言ったところか。知恵子は強引に「あの!」と口を挟んだ。 「こっちにはこの意味の解らない調査に、協力する義務はないんで。これくらいにしといてもらえませんか。では、失礼します」 《最後にもう一問だけ――》これ以上、相手のペースに乗っていてはキリがない。知恵子は食い下がる相手を振り切るつもりで受話器を叩きつけ、一息ついた。 「何か、面倒くさそうな電話やなあ」同僚の看護師が声をかけてきた。「ホンマやわ。わけ解らん」と知恵子は頷き、訪問記録に取り掛かる。仕事の区切りがついたらしい同僚は、帰り支度をしながら空気を読まずに雑談を投げかけてくる。 「浜永さんとこ、お子さん、学校は?」 「四月からやて。でも、うちは旦那も早々テレワークになったから、家に居るし、子どもの心配せんでよかったから助かったわ。ずっと家に居るのは鬱陶しいけど」 「ハハハ――うちは、おばあちゃんの行ってたデイサービスの日数を減らされて、それが大変やわ。」 「そっちの方が大変そうやなあ」 「『蜜』を避けるのに、一日の定員減らすんやって。ちょっと熱があったら帰らされるし、帰ったはいいけど、病院はどこも《保健所通してから》とか言うて受けてくれへんし、保健所は連絡つかへんしで、もう大変や」 「で、おばあちゃんは大丈夫なん? 熱あったんやろ?」 「ウチは大丈夫やで。同じデイサービスの利用者さんの話やから」 「なんや、ビックリするやんか」  同僚は年老いた母親の介護が待つ自宅に帰りたくないらしく、やたらしつこく話しかけてきた。こうして外に発散する場を持っている者はともかく、本谷和歌子のように四六時中、介護相手と一緒にいなければいけない状況は、相当息苦しく重荷だろう。だからと言って、服用ルールを破って眠剤を服用させてはいけない。病院に送る訪問報告書とは別に、病院のソーシャルワーカーに現状を報告しておいた方がよさそうだ。  明日の朝一、電話をかけ忘れないように、付箋にメモしてデスクに貼り付けておく。次いで、《平坂弁護士からの電話は取次不要》と書いた付箋を、事務員の電話のディスプレイに貼り付けておいた。  あの弁護士が一体何の調査をしているのか、平時ならもっと好奇心が激されただろうが、しかし今はそれよりも、日々の多忙や新型感染症の様々な影響への懸念の方が勝っていて、余計なことを考える余裕を持ち合わせていないのだった。
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