1.保育士・三宅由里

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 日常の小さな変化は、実は児童虐待の兆候だったりする。  由里は日々、すずを観察していたが、しかし特に大きな変化は見られなかった。暴力を振るわれたような、傷や痣もない。もともとすずは大人しい子で、自己表現が苦手な方で、自分から何か訴えるということは、まずない。こちらが問いかけても、うまく表現できずに戸惑ったり、あるいは曖昧に誤魔化したりすることもある。その反応は、母親のそれとよく似ているということに、由里は今回の件で気づいたのだった。  結局、何かがおかしいと思いながらも、その何かが具体的に解らないまま、日々の業務に忙殺され、解決されないままに据え置かれているのだった。業務の激化、保育士不足、様々な事情はあれど、しかし、子どもを守り育てるプロフェッショナルとしての責任の重さは、いつだって変わらない。近くを走り抜ける救急車のサイレンが、三度保育記録に戻った由里の不安を掻き立てていた。  その十五分後には保育記録を終わらせて、由里が保育園を出たのとき、すでに時刻は二十二時を回っていた。右の掌には、個人ファイルで確認した本谷親子の自宅住所が書かれている。母子家庭、すずは母親と二人暮らしだ。 スマートフォンの地図アプリを頼りに自転車を走らせる。行って何かできるわけではなく、そもそも何が起こっているかも定かではない曖昧な現状だったが、とりあえず行かずにはいられなかった。  コスモス保育園があるのは大津市の南部、びわ湖から流れる瀬田川にほど近い閑静な住宅街だった。大津市南部は隣接する京都市からのアクセスも良く、ベッドタウン開発が進んでいる。コスモス保育園もその比較的新しい住宅街の中にあるが、本谷親子が住んでいるのは、少し外れたところにある古くからの住宅地区だった。  園を出て自転車で約十分、住宅街の中を縫って進むと、二階建ての長屋造りの住宅が見えてきた。街灯に照らし出されたくすんだ白塗りの壁。南向きの間取りだが、しかしその南側には六階建ての綺麗なマンションが立っており、日差しは完全に遮られるだろうと思われた。由里は自転車を止めた。家の明かりは消えている。もう寝ているのか、それとも外出から帰っていないのか。  園を出る前に確認した個人ファイルでは、すずの母親は、昼間は食品工場のライン作業に従事し、夜は件のショッピングモールで清掃の仕事をしているとあった。どちらも非正規のパートタイマー。留美が見たのは、お迎えのあと、すずを職場に連れて行って、そこで待たせていた姿なのかもしれない。だとすれば、まだ仕事中か。夫婦共働き、夫は公務員で安定した収入のある由里には、母子家庭の苦しい経済状況に理解こそすれ、しかし実感には程遠く、やはり子どもの健康な生活を最優先に考えてほしいという願いが先立ち、母親に対して少し苛立ちを覚えた。  まだ仕事中なら、ショッピングモールも覗いてみるべきか。否、そこまで立ち入るべきではないか――時刻は二十二時三十分になろうとしている。腕時計から顔を上げると、大人と子ども二人連れの人影が目に入った。  暗闇に目を凝らす。二人が街灯の明かりに照らし出されたとき、由里は思わず「あっ」と声を上げた。子どもの方はすずだ。しかし、一緒にいる女性は母親の本谷理佐ではない。  すずの方もこちらに気づいたらしく、立ち止まってその女性の袖を引く。女性は腰を折り、すずの言葉に耳を傾けながら、チラチラと由里に視線を送っていた。会うとは思っていなかったタイミングでばったり会ってしまった動揺で固まってしまった由里に、二人はゆっくりと近づいてきた。
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