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「保育園の先生ですか」とその女性は尋ねてきた。
「ええ。そうです」由里は応え、すずを見やり、「こんばんは、すずちゃん」となるべく普段通りの笑顔と声を作って言った。
「あの、私、高見と言います」と、女性は自ら名乗った。髪に白いものの混じる、落ち着いた感じの女性だった。齢は五十から六十代といったところか。すずは高見と名乗った女性の右手をぎゅうっと握りしめている。すずの、不安のサインだった。
「本谷さんの――すずちゃんのお母さんの同僚なんです。彼女に頼まれて、すずちゃんをたまに預かってて」
「そうなんですか。その、本谷さんは?」
「最近、ちょっと実家のことでいろいろあるみたいで――」
「そうなんですか――」
「ところで、保育園の先生が、こんな時間にどうしたんですか? すずちゃんに何か御用ですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんです。ちょっと抜け道をしようと思って、通っただけなんですけど、そういえばお家、この辺だったなあと思って」
「え、じゃあ今お帰りですか? 保育士さんも大変ですねえ、お仕事ご苦労様です」
「ありがとうございます」社交辞令的な会釈をし、由里はもう一度、すずに目をやった。
「じゃあね、すずちゃん。おやすみなさい。また明日ね」
こくりと頷くすず。手を振ると、空いている方の手を振り返してきた。由里は高見にもう一度会釈をし、自転車をこぎ出した。
実家の方でいろいろある? そういえば、運動会や発表会に、おじいちゃんおばあちゃんが来たことはなかった。
いつも母親だけだった。
複雑な家庭背景があることは察しがついたが、しかし自分がそこに立ち入ってどうなる。一介の現場の保育士に何ができる。こういうときには、何か福祉的な支援が必要なのだろうが、しかしでは、どこに相談すればいいのだろうか。子ども家庭支援センター――通称『子家セン』に連絡するべきだろうか。でも、子家センに連絡をすれば、親子は引き離され、すずは児童養護施設へ入れられてしまうかもしれない。強制的な手段が必要なときもあるが、それは果たして今なのだろうか。懸案を抱えたまま、由里はゆっくりと帰路に就いた。
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