2.救急隊員・小倉恵実

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2.救急隊員・小倉恵実

【二〇一九年八月】  雨上がりの深夜二十三時過ぎ、大津市消防局に救急要請の一般通報が入った。場所は市立南第二小学校付近の路上。詳しい状況は不明。女性が倒れているということ以外、まだ解らない。  指令センターからの一報で、管轄の大津南消防署に所属する南救急隊一班が速やかに出動する。雨は三十分ほど前に上がったばかり。事故か。あるいはひき逃げか。小倉恵実はゴム手袋をはめた手を、膝の上でぐっと握る。  夏休みに入り、学生の飲酒運転による交通事故が多発しており、このところ、一度の勤務シフトにつき必ず、その件での出動がある。大学生はもちろん、高校生や中学生が当事者となる悲惨な事故もある。この八月に入り、すでに死亡事故への臨場もあったことが、恵実の気分に暗い影を落としていた。  いつもそうだ。救急救命士という資格を持ち、救急隊員という職に就いている以上、死を伴う現場に立ち会うことは間々あるが、仕事だからとそう簡単に割り切れるものではない。つい先ほどまで、自分が死ぬとは思ってもみなかっただろう人間の死を目の当たりにする経験は、恵実の心を静かに削り取っていく。  無線から続報が入る。要救助者は二十代半ばから三十代半ばの女性。意識なし。額と両手掌に擦過傷。大量出血なし。吐瀉物あり。  耳から入ってくる情報を、ゴム手袋をはめた手の甲に、青色のボールペンで書き込んでいく。恵実は三色ボールペンを愛用していて、青色は通報情報、赤色は臨場後の現場情報、黒は印象など自分用のメモと決めている。  さらに、アルコール臭がするとの追加情報で、「面倒やな」と助手席の村尾が渋い顔で言った。村尾は五十手前のベテランで、一般の班長であり、南救急隊の隊長も兼務している。救急車のハンドルを握る井原も救急歴十五年のベテラン。救急隊は三人一組で構成されており、南救急隊は三班のローテーション勤務だ。  村尾の渋い表情の理由は明解だ。アルコール絡みの要救助者の搬送先選定は難渋するのが常だからだ。どこの病院も、酔っぱらいを受け入れたくなくて、様々な理由を付けて断ってくる。たしかに、酔って転倒したなら自業自得だというのも解らなくはないが、しかしけが人はけが人。酒気帯びかどうかが受け入れ可否の判断基準にされて困るのは、まず要救助者本人であり、そして現場で搬送先を選定する救急隊なのだ。  現場に到着し、担架とともに救急車を降りる。ゴム手袋の中の手が汗ばむ。湿気とともに、暑さが足元から纏わりついてくるような不快感。そしてマスクを突き抜けて鼻腔を刺激する、吐瀉物の匂い。  要救助者の女性は、小学校のフェンスにもたれ掛かってぐったりしていた。
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