2.救急隊員・小倉恵実

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「アカンアカン、頭打ってるんやさかい。ちゃんと診てもらわんと」 「いえ――帰ります。私、帰らなきゃ」 「いや、アカンて――」  説得を試みる村尾を、井原が見つめる。救急隊に強制力はない。本人が乗らないと言うところを、無理矢理搬送することは原則できない。もちろん、見るからに生命の危険がある場合は少々強引でも搬送することはある。臨場し、危険があると承知しながら搬送しなければ、救急隊の責任問題になるからだ。  だが確かに、今日の場合はそこまで緊急性があるとは思えないというのが、救急隊員としての印象だった。村尾も井原も、形ばかりは説得を試みているが、内心は本人が帰ると言っているのだから帰してしまう方が楽だ、と思っているに違いない。  しかし、臨場した以上はちゃんと搬送すべきだと、恵実は思っていた。重症軽症の差はあれど、それが救急隊員としての責務ではないか。恵実は理佐の前にしゃがみ込み、「生命に関わることもあるから、ちゃんと病院で診てもらいましょうよ」と言う。  余計なことを。井原の心の呟きが聴こえたような気がする。  理佐が首を横に振る。頑なだ。  じゃあ、家まで送りましょうと村尾が妥協案を出す。仕方がない。  本人の搬送拒否が表立っての理由となるが、受け入れ先の病院が見つからなかったことも現実だ。病院が患者を選べてしまうシステムは救急医療の大問題だと思うが、それを変えるには社会全体を変えなければならず、恵実のような地方公務員が一人でどうこうできる問題ではない。結局、《本人の搬送拒否》は、救急隊員が搬送先を見つけることができなかったことの免罪符として利用されてしまう現実に、恵実はいつも救命士としての理想との狭間で、不完全燃焼を起こすのだった。  理佐は救急車に乗り込むことも拒否したが、さすがにこのまま放置しておくわけにもいかず、そこはやや強引に乗り込ませ、彼女の住所に向かった。閑静な住宅街の外れ、古い長屋造りの賃貸住宅の前に、先ほどの警察官の自転車が停まっていた。  家の前に救急車を横づけすると、警察官は渋い表情で歩み寄ってきた。恵実は左側から、村尾が右側から支えて、理佐を救急車から降ろす。途端に警察官は「あんた、子ども、ほったらかしやんか!」と強い口調で言った。  家の玄関。扉の隙間から小さな顔を覗かせ、二つの瞳がこちらを見ていた。女の子――理佐の娘か。怯えた表情の女の子を和ませようと、恵実は笑顔を作ったが、マスク越しでは伝わらなかったようだった。  村尾の携帯電話が鳴り、理佐から離れる。  理佐は虚ろな目で女の子を見、すぐに目を逸らす。  はい、南救急――了解、転戦します。村尾は携帯を切り、恵実にアイコンタクトを送った。女の子が玄関のドアを開ける。恵実は彼女を上り口に座らせ、「いいですか。何か体調に異常があったら、すぐにまた救急車を呼んでくださいね。水分をちゃんと摂ってくださいね」と言い含め、村尾の元に戻った。「草津救急から応援要請。多重事故や」まだこちらを見つめている、女の子と目が合う。  彼女に向けてそっと手を振り、救急車に乗り込んだ。 「班長、あれって虐待ですよね。育児放棄」勢い勇んで恵実は言ったが、村尾の反応は「だから、なんや?」と冷たい。 「俺らの仕事は救急搬送や。酔っぱらいにかまってられん」 「でも、あの女の子が――」 「警官がいるから大丈夫や。それに、いつまでも付き添ってるわけにはいかんやろ。もっと救急を必要としている人がおるんやから。多重事故やぞ、気を引き締めろ」  救急は人間の優先順位を決めなければならない仕事だ。恵実にとって、それが最もつらい職務だったが、救命士はヒーローではない。地方公務員だという現実を突きつけられる瞬間なのだった。
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