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第1話 灰色の宙のメランコリ
熱い――
夏空の下、焼けつくような日差しに照らされ、頬を伝って滴り落ちた汗が、マウンドを濡らす。
息をする度に熱気が身体の中に溶けていく。
脈を打つ度、熱気が全身を駆け巡り、空気と身体の境界線が曖昧になっていく。
遠い――
顔を上げた先に見えるのは、幼馴染の省吾の構えるミット。
小学生の時から投げ続けて、何百何千球と届けていた。
今更見間違う筈は無いのに、遠い――
僕は今、全国高等学校野球選手権大会の九州地区決勝のマウンドに立っている。
9回裏2死満塁の1点差。この回を押さえれば、甲子園へと行くことが出来る。
省吾のサインは直球、ミットを内角低めに構える。
省吾は瀬戸際の局面でも「宙人! 勝負だ! ここだ! ここに来い!」と力強く訴えかけてくる。
意識が熱気に溶けていく中でも、積み重ねてきたものは体に染みついて色褪せることは無かった。
僕の身体は大きく振りかぶる。ストライク以外許されない局面で盗塁なんて気にしている余裕なんて無い。
踏み出した足はしっかりとマウンドを捉える。
全身の筋肉が弓を引き絞るように、力と想いが球へと伝わっていく。
この腕を振りぬけば勝てる。
そして、僕らは甲子園へ行く。
子供頃、僕と省吾の幼馴染、愛花へ、二人で誓った約束を果たす。
だけど――
僕らの切なる思いは、僕の肘と一緒に砕け散った。
まるで硝子の砕けるような音。肘の中で硝子が肉や腱を引き裂いていく。
全身に走る激痛は僕の力を奪い、滑り落ちた球はコースを僅かに外れて甘く入る。
マスク越しの省吾の目は驚愕で彩られていくのが分かった。
バットの先で捉えられた僕らの想いは、ショートと三塁の間を抜けていった。
マウンドに僕の膝は崩れ落ちる。
相手のランナーがホームを踏む姿を僕は見ることは無かった。
代わりに見えたのは、抱き上げる血相を変えた省吾の顔と、真夏の空に映し出された地球の蜃気楼。
僕の瞳はあっという間に青い惑星の姿に奪われた。
――何て、綺麗なんだろう。
省吾が僕を必死に呼びかけている。
――え? 何を言っているんだ? 聞こえない。
口を開くも声が出ない。それでも伝えようとして声を絞ると、僕の中で糸が切れる音がした。
その音は僕の夏の終わり、そして野球生命の終わりを告げる音だった。
一年後――
色褪せた教室の風景、僕は熱いとも冷たいとも言えない鈍色の机に肘を付いて、空を眺める。
窓から見える空にはいつも通り、地球に似た半透明の惑星が映っている。
決勝戦で僕が見たものは蜃気楼ではなかった。
ニュースで専門家は連日、空に映し出された惑星の事で持ち切りだ。
なんでも天の川銀河の中心にあるブラックホールから放たれた重力波の影響とかで、遥か遠くの惑星が映し出されているとかなんとか。
専門家たちはその惑星の名を『スペクリム』と名付けた。ラテン語で「鏡」という意味らしい。
「宙人っ! ねぇ? 聞いている?」
前の席に座る甲高い声の女子生徒、川原愛花が不意に声を掛けてくる。
僕の幼馴染であり、野球部のマネージャーで、現在は同じ幼馴染の野球部のキャプテン、隅田省吾の彼女である。
「あぁごめん、聞いていなかった。何?」
うんざりした様子で愛花は溜息を付いた。
愛花に気を悪くさせたことで、僕の心に罪悪感が襲う。
「だから、今日、バイト何時に終わる?」
「あぁ、うん。今日のシフトは7時ぐらいだけど?」
「分かった。そしたら、話があるから、行くね」
「……うん」
惑星スペクリムが現れた高校一年の夏、種子島初の甲子園出場が掛かった県大会決勝戦。僕の肘は限界を迎え、二度と90度以上に曲がることは無くなった。
元々球威、球速、コントロールの良さに引き換えて、関節は脆く、硝子のような肘が災いした。
高校一年の夏を境に、僕の目には何もかもが濁って見える。
まるで別の世界に紛れ込んだように――
今も僕の頭の中では仲間から投げかけられた言葉が渦巻いている。
――なんで言ってくれなかったんだよっ! 怪我しているって最初に言ってくれたら――
思い出す度に僕の心と体に重くのしかかる。
控室で意識を取り戻した僕に、待っていたのは同情でもなく、労いの言葉も無く、仲間達の容赦ない罵倒だった。
仲間の言葉は肘の調子の悪さを隠し、投げ続けていた僕に、実にふさわしい罵倒だ。
来年もあるのに我欲に任せて突っ走り、皆の期待を裏切った。
責任を感じた僕は逃げるように野球部を辞めた。
辞めた僕に待っていたのは、甲子園出場を逃したことで、皆から向けられる陰口だった。
僕は今も針の筵にされながらも学校に通い、人と極力関わらないようにしている。
そしていつしか僕の中で「死にたい」という気持ちが溢れてくるようになった。
僕の心とは対照的に今日の教室の空気は騒がしい。
多分、今日が終業式だからだろう。高校2年の夏休みが始まろうとしている。
喜びに満ち溢れている教室の雰囲気。みんなが夏休みを心待ちにしている。
僕にはまるで理解できない感覚だった。
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