スコール

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スコール

 小樽へと続く、国道5号線沿いにその建物はあった。  いつもは高速で走るから、いつからそこにあったのかは知らない。  『お昼寝できます』  通りすがりに、かろうじてそう読めた看板。  真っ白な塗り壁。豆腐みたいに真四角の、小さな建物だった。    あんな小さな場所で?お昼寝?真っ先に頭に浮かんだのは、商売が成り立つのかどうか。そんな下世話な事を考えたけど、5分も走れば、その建物の存在自体を忘れていた。  ある晴れた水曜日の午前中、その日から4日間は仕事は休みだった。こんなに長い休暇は久しぶりだった。小さなレストランに勤めていた私は、同僚が辞めた事からなかなか休みが取れずに居て、そんな私に店長が休暇をくれた。  恋人も家族も居ない私には、4日間なんて長過ぎると思ったけど、好意に甘えることにしたのだ。  休みだというのに、朝早くに目が覚めた私は近くの公園まで車を走らせた。  ベンチに座って、読みかけの本を開く。広がる青空に、流れる雲、時折吹く心地よい風。  あまりにも気持ちが良くて目を閉じた私は、そのままウトウトしてしまったらしい。    気付いた時には雨に当たっていた。  みるみるうちに雨は酷くなり、一面真っ黒い雲に覆われていた。  こんな事って、あるんだろうか。  こんな、スコールみたいな雨がこの北海道で。  駐車場に向かって走っていた。  走っていたつもりだったのに、走っても走ってもたどり着けなかった。  駐車場から、さっきまで居たベンチまでは5分くらいだったはず。  なのに、走っても走っても……何なのこれ。  ふと、数メートル先に建物が見えた。  目的地に向けて、スピードが上がる。  建物のすぐ目の前に立った時、思い出した。  あの建物だった。  『お昼寝できます』の豆腐みたいな建物。  ……え、なんで。  一瞬躊躇って、焦げ茶色の重そうなドアを開けた。  カランカランカラン…と、昔ながらの喫茶店にあるようなベルが鳴る。  「お帰りなさい」と、店主が言った。  「いらっしゃいませ」でも「こんにちは」でもなく。  50代くらいの、品の良さそうな女性が笑顔で佇んで居る。  「そこに座って」と、ソファーを指し示した。  モスグリーンの、布張りのソファ。  「あ、でも……」濡らしてしまう、と躊躇った。  「大丈夫よ。濡れても構わないから。ソファは、座る為にあるものよ」  私の気持ちを分かっているようだった。  真っ白のふかふかなタオルを私に渡してくれながら、「温かいお茶を用意するわね」と彼女は言った。  こんなにふかふかなタオルを、私は知らない。  凄く気持ちが良くて、あちこちを拭きながら、顔を埋めた。  コトン、とカップソーサーをテーブルに置く音で、顔を上げた。  「もうそろそろ、来る頃だと思ってた」と彼女は言った。  「……え?」  なんの事だか分からず、彼女を見つめるしか出来ずに居た私に  「さ、飲んで」微笑んで、カウンターに下がった。オフホワイトのサテンのブラウスに、淡いピンクの膝下のスカート。肩につきそうでつかない長さの少し茶色っぽい髪。温かそうな人だった。  彼女が淹れてくれたお茶は、熱過ぎず丁度よかった。  なんのお茶だろう……初めて口にする味だった。  「蓮茶よ。気持ちが落ち着くわ」  「ハス……?凄く、美味しいです。」  「ごめんなさい、私」突然来た事を謝らなければ、と思った。  「ひどい雨ね」と、窓の外を見やりながら彼女はつぶやいた。  喫茶店のようなカウンターに、布張りのソファー、その前には小さな テーブル。窓の側には、たくさんの植物。それだけだった。  こんな狭い空間で、昼寝をしてると言うのだろうか。  あんまりジロジロ見るのも良くないな、と思い私は彼女に質問をぶつけてみることにした。    「あの」  なあに?と言うように、彼女は私を見た。  「前に、通った事があるんです。ここ、昼寝ができる場所なんですよね?」  ああ…そういえば、とでも言いたげに彼女は天を仰いだ。  「出来るわよ。お茶のおかわりはどう?」言うと同時に、立ち上がる。  「あの…このソファーで、って事ですか?」  え?と言うような表情で私を見た後、お茶を注いでくれた。  「あなたには、見えていると思うわ」  「え?」同じ表情を、今度は私がする番だった。  「あそこのドアと…、その猫も」そう言いながら、植物が並んでいる横にあるドアと、足元に甘えて来る猫を指差した。  あんなところに、ドアがあっただろうか。  猫も、いつからここに?擦り寄りながら、ニャアと鳴く可愛い黒猫。  「で、どうする?寝ていく?」優しいその声は、とても心地が良いけれど…言っていることは、さっぱり分からなかった。  「あ……あの、ここ初めてで。私、どんなところか全然分かってなくて」 慌てて取り繕う私に、「そうよね」と、ソファー近くのオットマンに腰を下ろして、私に静かに語りかけた。  「たいていの人はね、ここまで辿り着けない。全ての人に、この建物が見えるわけじゃないから。見えても…そうね、目の前まで来て、諦める。中まで入っては来ない。この建物に、『呼ばれた』人だけが来られるのよ。そして、入れたとしても…あのドアと、この子(猫)が見られた人だけが、この先に進める。」  分かる?と彼女は訊いたけど、そんな映画みたいな話、到底信じられるはずなんかなかった。だって、私にはハッキリと見えている。この建物も、そのドアも、黒猫も。  「……お姉さんは、幽霊?」そう訊くしかなかった。なんて馬鹿な事を口にしているんだろうと、言ってすぐに後悔した。  「……」ちょっとの間があって、ヤダ、違うわ!と笑った。  もう一杯淹れましょうね、と彼女が立ち上がった時、玄関の扉の方で気配がした。  「ほら、見て」  何故か、外の様子が透けて見えて居た。  「…え」なんで外が見えるんだろう。  一人の女性が、様子を伺いながら、踵を返していくのが見えた。  「ほらね、あんな感じよ。」  「あのドアの向こうは、個室?料金って、1時間幾らとか?」咄嗟に、現実的な話をしようと思った。でないと、どんどん訳が分からなくなってく。  「じゃあ、これを飲んだら先に進んでみましょう」
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