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決断のとき
戻って来た彼女の姿を見て安堵したのも束の間、私は決断を迫った。
『パラレルワールドを自由に往来できる権利』を得るか否か。彼女が望めば、こちら側の世界の住人となる。生身の体を捨て、VR空間への移住だ。
実際には知らされない、それが本来の目的。それは、奪い合う事で足りなくなった土地を始めとする社会インフラを再構築する事。そして、どうしたって人類が勝つ事の出来ない病やウイルスから逃れる為の不老不死の世界だ。
それはある意味、パラレルワールドと言う事にもなるだろう。
新しい、もう一つの世界が存在するのだから。
そして、その権利のチケットを彼女は受け取った。
「あなたが望めば、パラレルワールドと今の世界を自由に往来できる。そちらの世界には争いごともなく、平和な世界が広がっている。これまで後悔して生きてきた様々な事から逃げることはできるし、自由になれる。あなたが好きに思い描いていい。好きな人と、好きな人生を歩むのは簡単だとあなたは知ることができる。あなたが会いたいと望んだ人と新しい世界で一緒に生きることが出来るわ。例えば、恭子さんや…正臣さんや…お母さんや…そして、拓也さんとだって。」
そう最後に伝えながら、彼女の前に戻ってきた時用のお茶を差し出す。それをゆっくりと味わう。目元には、泣いた跡が見てとれる。
『自由に往来できる』と言うのは、嘘だった。
もしも『自由』を望めば、彼女は元の世界では肉体を手放すことになるのだ。その為、世間的には死ぬ事になる。秘密裏に心不全として処理され、体の一部は抜き取られる…。
でも彼女の決断は、聞かなくてももう私には分かっている気がする。
たった4日間だけど、これまでの誰とも違う感覚があった。
同じ世界で生きられていたら、私達は親友になれたかも知れない。
「若菜さん、私…今のままでいい。」
長い沈黙の後に、彼女はそう言った。
私は黙って、それを聞いている。
「…私ね、今までの人生…後悔ばっかり。だけどそれって、一生懸命向き合って来たからでしょう?今回こうやってチャンス貰って、忘れようって決めた過去とまた向き合って、なんか分かった気がする。」
「そうやって自分なりに一生懸命に生きてきた人生だから、その結果だから、この先も…このままの自分でやってく。」
明るい、表情だった。吹っ切れたのだろう、と思った。
「それに私、期限付きの人生のが頑張れるみたい」
そう言って笑う彼女は美しかった。
「…そう、残念ね」
私はようやく、口を開いた。
「チャンスはこれっきりなのよ?」
私も笑って、精一杯の明るさで、彼女に投げかける。
「もったいないよねぇ?…でも大丈夫」
アハハと笑う彼女。
それじゃ、と私は最後のお茶を用意する。それは、これまでのティーカップではなくショットグラスに。特別なブレンドの、凝縮されたシロップに近いお茶。
「結衣さん、残念だけど…この4日間の記憶は全て消えるわ。でもきっと…心の中には、何かが残ってるはず。あなたのこと、応援してる。」
初めて泣きそうになる感覚に、自分で驚く。
「…もう、会えないの?」
そんな私を見て、あなたは悲しそうな顔をした。
「…私は、あのドアの外へは行けないから…お別れね」
その言葉に、あなたは不思議そうな顔をした。
「…さ、これを一気に飲み干して」
ショットグラスを手渡すと、言われるままに飲み干す。
「さようなら」
私の言葉に、あなたは何も言わず…深々とお辞儀をした。
ドアを出てゆくあなたを…静かに見送る。
閉じたドア越しにも、あなたの姿が見える。
ゆっくり歩き出すあなたに「元気でね」と声を掛ける。
彼女の出て行ったドアを、いつまでも眺めていた。
人生は、選択の連続だ。誰と出会い、何を選ぶか。小さな一つ一つの選択は、確実に明日へと繋がっている。…どれか一つでも違うと、現在は無いし、これからも。
(これで良かったんだ)
私はそう思った。心から。
そりゃ、私の評価は下がるだろう。まだ当分は見習いのままだ。てっきり罵倒するのだろうと思っていた先輩が、何も言わないのが怖かったけど。
ふと、彼の視線に気づく。
私に向かって手を伸ばす仕草に、思わず目を瞑って構える。
「なんだよ」
彼はそう言いながら、私の頭をクシャクシャっと撫でていた。ちょっと乱暴だけど、先輩にしては優しく。
「Good Job!」
流暢な発音でそう言うと、これまで見た彼の中で最高の笑顔を見せた。
「やめてよ!先輩が優しいと気持ち悪い」
照れ隠しに悪態つくと、涙は引っ込んだ。
「先輩、黒猫のがいいんじゃない?」
「いや、やっぱりイケメンは表に出とかないとな」
「誰がイケメンよ」
ー私の人生もまた、これで良かったはずだと思いたい。もう、取り戻せはしないのだから。私も、先輩も。いつか…先輩の辿った人生も訊いてみたい。教えて、くれるかな。
「おい、昨日インストールした越智彩音さん。1日経って不具合ないか確認しとけよ」
先輩の声に、ハッとなる。
「先輩、いま行って来ていい?」
「急げよ、もうすぐ高橋和真の来る時間だろ?」
え?と時間を確認する。
「やっばい!…行って来る!!」
急いで扉を開け放った。
広場の奥には個室へと繋がる通路の他にもう一つの通路があって、そこはある部屋へと繋がっている。鍾乳洞を利用して温度管理された、大きな空間。
その壁伝いに設置された棚に並ぶ、3L容量のガラス瓶。全部で何個あるかは知らない。何千個、何万個…だろうか。ハッキリした数字は、このシーズンが終わると出るけれど。
ガラス瓶からはそれぞれ数本のワイヤーが出ている。そのワイヤーと繋がっているのは、溶液に浸された脳だ。溶液がグツグツと小さな水泡を立てて、その刺激で時々脳が生き物のように蠢く。
入り口にある電子版。そこに、日付と名前を入力すると…年代順に並んだ瓶の棚に埋め込まれたプレートが点滅をして場所を知らせてくれる。
棚の前に行き、確認をする。異常を知らせるサインは出ていない。
その時何故だか、久しぶりに確認したくなった。
先程の電子版に戻って、入力し直す。
【1987/8/19 wakana.sugimoto】
照らされたプレート。そのガラス瓶に入っているのは…紛れもなく、私自身。
でもその人生に想いを馳せるには、今は時間が足りない。顔を上げて、その部屋を後にした。
今日も、明日も、私は迎える準備をする。
こちら側の、世界に…。
『お帰りなさい』
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