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良い旅を
お金は要らないわ、と彼女は言った。
料金の発生しない商売なんて、成り立つだろうか。あるとすれば、それは○○商法とか言う、訳のわからないインチキ商売…詐欺まがいのモノだ。どうしよう…やばい、絶対やばいやつだ。早く逃げなくちゃ。
そんな私の心を見透かしてるかのように、黒猫がニャアと鳴いた。
「ほら、安心してってその子も言ってる」
「…あ、いや…その」黒猫もお姉さんも、私の心が読めるんだろうか
「大丈夫、そのドアは勝手に鍵が掛かったりしないし、その扉の奥に怪しい男達が潜んでいる訳でもないから。」
そんなの映画の中の話よ、と彼女は言ったけれど…充分、映画の話みたいだ。
こんな不思議な事だらけでドキドキしているのに、全然心臓が高鳴る訳でも手が震える訳でもないのは、このお茶のせいだろうか。気持ち悪いくらい、リラックスしていた。一度深く息を吸うと、意を決した。
「み…見るだけ。」
「…いいわよ」と言う彼女は、笑っていた。
「さて、行って来るわね。お留守番お願い」と、彼女は黒猫に言った。
ゴロゴロ喉を鳴らしながら、ニャアと返事をする。返事をして、ポーンとカウンターに飛び乗ると、さっきまでお姉さんが座っていた椅子の上に丸くなった。
「荷物は置いて行っていいわよ、誰も来ないから」彼女の言うがまま、ソファーに荷物を残して立ち上がる。
「さ、行きましょう」
ドアの向こうは、まるで鍾乳洞のようだった。
岩がゴツゴツしていて、ひんやりと冷たく薄暗い。
こんな場所があったんだ。…そういえば、ずっと昔にそんな事を聞いたこともあったっけ。忘れてたけど。
そんな事を考えながら、お姉さんの後ろをはぐれないようについて行った。
どれくらい、歩いたろう。いきなり、広場のようなところに出た。その頃にはもう、怖いとか、不安だとか、いろんな気持ちが消えていて。ただただ、この奇妙な状況の全てを受け入れ始めていた。
「さて、どうする?」私を振り返りながら彼女は訊いた。
…どうするって?何が?私の表情に、お姉さんがビックリした顔をした。
「やだ、私まだ話してなかったわね。」
お姉さんは、これまで口にしたどの話よりも映画らしい事を言ったんだ。
「ここから先に進むと、もう1つの世界に繋がっている」
人は、驚き過ぎると声が出なくなるらしい。頭の中で、どうにか処理しようとするんだけど、どうしても出来なかった。
見つめる私、見つめ返す彼女。
「…え、っと…」
「思い出して、あなたもう既に行き来してたわよ」
…スデニ、イキキ、シテ、イタ。思考回路ゼロの私は、ロボットのように頭の中で彼女の言葉を繰り返した。
「あなたは、夢を見ただけだと思ってる。夢か現実が分からなくなるようなリアルな夢、あったでしょ?」
彼女は私の両肩を掴みながら、必死に訴えかけた。
「あれね、全部現実。もう1つの世界に行ってたの」あんなに冷静だったお姉さんが、慌てている様子はなんだかおかしかった。…言ってる内容も、正気とは思えなかったけど。
「…うーん、と。なんて言ったっけな…ごめんね、私まだ慣れてなくって。」どうしよう、どうしよう、と落ち着かない様子でウロウロしたかと思うと、また私の両腕を掴んで言った。
「そう!パラレルワールド!」あー、思い出してよかったーと彼女は言う。
「今まではね、あなたの望む望まないに関わらず、勝手に行き来してた。でも此処は、それを自分の意思で行き来する事ができる場所なのよ」
「あなたは、選ばれたモニターなわけ!」
畳み掛けるように一息にそう言うと、満面の笑みを浮かべる。
…そして私の思考は、再停止する。
「ねえ、…分かった?」彼女が私を覗き込みながら不安そうな顔をする。
「…いや、あの…ちょっと…」
「そうよね、ごめんなさい上手く伝えられなくって。…私、試用期間中なのよ。先輩はすごく上手でね、うまーく流れるように伝えるもんだから、みんなスムーズに受け入れてたわ。ダメね、私はまだまだだわ」
…私は今、夢を見ているんだろうか。
混乱しながらも、私は分かっていた。これが夢でも、そうでなくても、確かめる方法は只一つ。先へ進むしかないって事。もしも夢ならば、変な夢見ちゃったなーと目が覚めるだけだし、例えこれが夢じゃなくっても…じゃなくても、じゃなかったら…いや、それはそれで、どうしようもない。
多分、夢。これはおかしな夢。
自分に言い聞かせるように、何度も何度も頭の中で繰り返した。
先へ進むと言った私に、彼女は安堵した。
試用期間、と彼女は言った。ノルマでも、あるんだろうか。
広場を抜けると、真っ直ぐ伸びる廊下の両側に部屋が並んでいるようだった。ドアには解読できないような記号が並んでいて、そこがボアーッと光が灯って見えた。青や、白や、赤や、黄色や…あの色は、何を指しているんだろう。きっと、意味があるはずだ。
少し歩いて、一つのドアの前で彼女は止まった。
「さ、入って。」
入るとそこには、高級そうなリクライニングシートが一つ真ん中に置いてあって、肘掛の近くには小さなテーブル。そこには時計。ドアの横には、ランプが一つ。
「遠慮しないで座って」と彼女は言いながら、そのランプに何かのオイルを垂らした。たちまち、香りが広がった。…アロマランプなんだ。
何の香りかは分からないけれど、すごく好きだと思った。
恐る恐る、椅子に座ってみると…突然、私の体に合わせるようにして椅子がカタチを変えたようだった。
彼女が、時計を手にした。
「2時間したら、あなたは目が覚めて戻ってくるわ。そうしたら、さっきの広場まで歩いてきてね。…では、良い旅を」
彼女がそう言ってドアを閉めると、ドアは消えて無くなった。
そして、まるで水の中にいるような感覚に包まれる。
キラキラした水面を見つめながら、どんどんどんどん、海の底深くに沈んでいくような…そんな不思議な感覚だった。
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