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案内人
扉を閉めたところで、思わずため息が漏れた。
「何とか、無事…」
「じゃないだろう?」
突然背後から聞こえる低い声に驚いた。
「…先輩、驚かさないで」
黒猫が足元にまとわりついてくる。
「全く君は…見てられなかったよ」
声の主は、この黒猫…いや、黒猫の姿をした先輩。
「先輩みたいに口達者じゃないからよ!」
「あの子も、よくあんな説明に納得したな」
「…先輩、『結果オーライ』って言葉知ってる?」
返事を待つ事なくズンズンと歩き始める若菜の後ろで、黒猫が叫んだ。
「おい!サイン忘れてるぞ」
…あぁああああ、もう!踵を返し、再びドアの前に立つと手をかざして氣を送った。青白い炎のような光が灯る。
よし、と来た道を戻りかけた時、また足元で黒猫が鳴いた。
「お前、それだけは上手いよな!」
「…早く行きますよ、先輩!」
私はまだ見習いだった。試用期間といっても、期限は無い。先輩は、私が心配だと言って黒猫の姿を借りて見守っている。…いや見守ってるんだか、邪魔してるんだか分からない。
だって、先輩がいつも聴いてるから、見てるから、どうしても気になって失敗してしまう。こう見えて私は繊細なんだ。上手くいかないのは、緊張しているせい。
その昔、私も現代に生きていた一人だ。
当時の元号は「昭和」だった。
何故そんな私が、今こうして案内人をしているのか…あの頃はまだ、今みたいにルールがあるわけじゃなかったから、単に無作為に選ばれたに過ぎない。と、思う。
杉本若菜。その頃の、私の名前。
52歳。その頃の、年齢。
案内人となった私から失くなったのは、そんな名前や数字。
…パラレルワールドは、存在した。でも、それは一つじゃなかった。選ばれた一人一人の選択によって或る世界が誕生し、何処か誰かの世界と交わり、繋がっていく。それを軌道のようにカタチに表したら、それは丁度脳の神経細胞シナプスのように見えるだろう。
現代では、繰り返し繰り返しウィルスやら自然災害やらが猛威を振るっていた。そして、時代が変わっても変わらない領土争いのような紛争。崩壊に向かって行くかのような世界情勢。治療困難な難病や奇病。それらのどれもが現代人の知識や技術では到底追いつけず、危機的状況だった。軍事情勢は活発化し続け、壊滅的な地球環境の破壊。このままでは地球の存続が危ぶまれると当初、世界が手を組み宇宙への避難を進めていた。だが、失敗。非現実的なものとなってしまう。そこで、密かに進められていたパラレルワールドの世界への緊急避難を進める為、各国の王族、有名企業の代表や財閥など世界中の権力者や研究者らが集められ秘密裏にプロジェクトは開始されていた。
「生身の人間は必要ないのではないか?」
必要なのはその肉体ではなく、脳なんだと。脳に直接信号を送ることで、全てを操り自由に動かすことができるのだと。
最初こそ夢物語の一つでしかなかったその考えは、プロジェクトの創設者の一人が病によって余命宣告されたことで具体的なものとなり、テクノロジーの進化は急加速していった。
肉体が不要になれば、病気や事故で命を落とすこともなくなる。何か不具合が起きれば、そのバグを修正・改善すればいいのだと。
それは、テクノロジーの進化が創り出した新たな価値観だった。
人間一人に必要なのは、たった一枚のマイクロチップなのだ。
でもそれも、一進一退。
理由は明らかだった。案内人が育たないからだ。
パラレルワールドと現代を結び、安全に送り届ける案内人。それは思っている以上に困難で、そのせいで減る人口も多かった。
人間は、新しいものをなかなか受け入れられない性質があった。だからこそ、慎重にならなければならない。対象者を急激に増やしてしまえば、混乱はどうしても生じてしまう。だからこそ、無作為に信号を送り続け「夢」を操作しながら実験を繰り返してきた。そうしてクリアしてきた者が最終的な対象者となった。
4日間。それが、対象者に与えられた時間。
ロータスという花がある。和名をハス。インド原産、多年草の水生植物である蓮の花は、早朝に咲き始めてお昼には閉じてしまう。そのサイクルで4日間。4日目は夕方まで咲き続け、そのまま花びらを落として散っていく。
その蓮の花は、対象者の命そのものだった。
そして、蓮の花が咲くところには、パラレルワールドへの入り口がある。
極楽浄土に咲く花、神聖な花とされたその花は、約1億4000万年前から地球上に存在していたとされている。だけど、その原産地は未だ誰にも知られていない未知の花とも言われている。
このプロジェクトは、『Lotus』と名付けられ、その花が咲くインド、エジプト、中国、日本、オーストラリアなどで極秘に進められて来たのだった。
この日本では、蓮の花が咲く7月から9月にこの扉は開かれる。
「藍沢結衣、41歳か…どうだ?送れそう?」
カウンターに突っ伏した私の目の前に、いきなり黒猫が座り込んだ。
「…先輩、いつまで黒猫でいるの?」
「いや、なんか気に入っちゃって。」
「ふーん…」
「…で、どうなんだよ」
うーん、分かんないな。
「お前、彼女の過去全部見たんだろ?」
「…うん、見た」
でも人の気持ちは、苦手。
チリチリン…と、鈴の音が鳴った。
藍沢結衣より一足先に個室に入った、加納健吾の戻る時間だった。
「あいつ、3日目だったよな。…戻ってくるかな」
何となく、戻って来ない気がしていた。でも、戻って来ないってことは「失敗」だ。私の成績になる。
「…若い男の子は、苦手」
気持ちが全く想像すら出来ないから、何の誘導も修正も出来ない。
私がこれまで「失敗」したケースは、そのほとんどが若い男の子だった。
「お前、『人』全般苦手じゃないか」
うるさい、黒猫。
「…ってか、30過ぎてんだろ?若くもないよ」
「20も違ったらもう、相手は宇宙人なのっ!」
大きく伸びをして、体をプルプルっと震わしてる黒猫に
「早く行くわよ!」と急かして、広場に繋がるドアを開けた。
結局、加納健吾は戻って来なかった。
ドアの前に立ち、氣を送ってサインを灯す。
赤く光るそれは、緊急アラートだ。
彼の存在はこの世界から消され、失踪者と扱われることになる。
このドアを開けたそこに、もう彼の姿はない。
部屋を浄化する為、しばらくこの部屋も使えなくなる。
彼のように3日目に戻って来なくなるケースは、珍しくはなかった。
そして、大切な事をまだ言ってなかったけど…彼の存在は、パラレルワールドの世界からも消されてしまっている。彼が残りたいと、おそらくは悩み苦しんだかも知れないその決断こそが、「自分」を消してしまったのだ。
もしも知っていたなら、思い留まっただろう。だけどそれを伝える事は、禁じられている。
「…先輩」
先輩は返事をする代わりに、ニャアと小さく鳴いた。
「先輩は…辞めたくなった事はないの?」
まさか!と、先輩は笑った。
「…悩んだことは、あるけどな」
それを聞いて、ちょっとだけ安心した。
「先輩でも、悩むことがあるんだね」
「俺を何だと思ってるんだ…」
そう言うと先輩は、ニャアニャア鳴きながら足元でまるで猫みたいにじゃれついた。
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