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深い深い海の底に沈んだ私は、気付くと教室にいた。
…教室!?
思わず椅子から立ち上がってしまって、その派手な様子にクラス中の視線を浴びてしまう事となった。
「…あっ、と…すみませんでした…」
目立たないように、静かに…座り直そうとするが、既に遅かった。窓際の前から2番目。そこが、私の席だ。そんな場所で、こんな派手な登場をやらかしてしまったんだから。
…って言うか、私にとっては登場だけど皆んなにとっては登場でも何でもないのか。座り直して、頭を抱える私に先生の声が飛んだ。
「また結衣なら…居眠りすんなよ」
この先生、誰だっけ〜…いつだ、いついついつ…あ!そうだ。教科書を見ればいいんじゃん!机の上に広げてあった教科書やらノートやらを頼りに、ヒントを得ようとした。ヒントどころか、答えは簡単に見つかった。
中学2年の国語の時間!山田一茂先生だ!!教科書をおデコに当て、心の中で「ありがとーっ!」と叫んだ。
…ら、また先生に目をつけられた。
「大丈夫か〜?結衣は特にしっかり聞いとけよ」
…最悪だ。
授業が終わるチャイムが鳴って、私は慌てて教室を飛び出した。
ヤバイヤバイヤバイ…よりによって、何で中学…!?もう、ほぼ消えかかっていた記憶を頼りに、私はトイレを探していた。一刻も早く自分の姿を確認したかった。さっきまで私は、41歳!41歳の私が、セーラー服!!信じらんない、嘘でしょう!?廊下のあちこちで誰かとぶつかりそうになって、その度に「ごめん」「ごめんなさいよ」と謝っている。そんな自分の言葉すら、場違いに思えて今すぐ消えたくなる。誰にも会いたくない、見られたくないのに、休憩時間の今は当たり前のように生徒が多い。
やっとの思いでトイレに着いた私は、意を決して鏡を見ようとした。
…ちゃんと、中学生時代の私がいた。
「よか…ったぁ」
そうだよね、今の姿な訳ないか。びっくりしたぁ…いや、マジで焦った。
…ついでにトイレ入ってこ。個室に入って、腰を下ろす私。
個室の外がガヤガヤと騒がしくなったと思ったら、
「結衣いるー?」と声を掛けられた。
ガラガラとトイレットペーパーを引き出しながら、誰の声だっけ…と考えていた。水に流し、個室から出る私を待っていたのは懐かしい顔だった。
「恭子!」
声を聞いてもすぐに思い出せなかったのに、顔を見た途端に名前が口を出ていた。
「結衣慌てて出てくからさー、漏れそうだったん?」
ニヤニヤしながら、絡んでくる恭子。
「ち、違うよっ」
手を洗ってる横でまだニヤニヤしてる恭子に水をかけてやった。
「…ちょっ!きったねー!」
顔を庇いながら逃げてく恭子の姿。
すごく懐かしかった。こんなに仲が良かったのに、どうして今はもう会っていないんだろう。いつから会ってないんだろう。キャーキャー笑ってる恭子の姿を追いながら、私は考えていた。
今はもうほとんど見ることのなくなったセーラー服。中学時代のこの制服は街でもちょっとした評判になるくらい可愛くて好きだったな。胸元も、リボンではなく紺色のスカーフで、いろんな結び方をして気分を変えていたっけ。
「ねー、結衣さあ今日はどうする?」
前を歩いていた恭子が振り返りながら訊いてきた。
「どうするって?」
恭子の着こなしは、ダントツで可愛かった。短過ぎるそのスカートは男子生徒だけでなく先生方の目も引いて、よく怒られてたけど。ま、恭子が目をつけられるのはその上着もスカートも詰め過ぎてるせいだけじゃなかった。
髪だって染めてたし、ちょっと派手だったからね。あの頃は、今みたいにいろんな事が自由じゃなかったから…ちょっと窮屈な時代だったな。恭子は産まれてくるのがちょっと早過ぎたんだと思う。今だったら恭子みたいな子なんて当たり前にいて、楽しんでるのに。
「やだなぁ、居眠りして忘れた?ライブだよライブ!」
…そうだ。
あの頃恭子は専門学校生と付き合っていて、その彼のバンドが出演するライブハウスによく出入りしてた。私も何度か付き合って見に行った事があったけど、その音楽も特有のノリも好きになれなかったんだ。
「やめとくー」
「結衣いっつもそれな!」
両頬をぷーっと膨らませ、つまんないと拗ねている。
「次なんだっけか」
男子生徒がやるみたいに、恭子の首に腕を回した。
まさか、もう一度学生時代を過ごせるなんて…しかも中学だなんて。
…そうだ、そうだよ思い出した。「タイムマシンがあったら」なんて会話には必ず思い出してたのが、この中学時代だ。楽しかったから。毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかったから。小学校の頃だって、高校の頃だって、楽しい思い出はいっぱいあるけど中学は特別だった。
初めての制服や、自転車通学や部活動。恭子っていう親友が出来てオシャレも覚えて。…そうだ、初めての恋もこの頃だ。毎日がキラキラしてたんだ。
4時間目は数学だった。
そりゃ、戻りたかった中学だけど…勉強はやっぱりやりたくない。
久しぶりの授業は、もともと嫌いだった上に更にチンプンカンプンで、先生が異国の言葉を喋ってんじゃないかって思うくらい、全く理解が出来なかった。だから、教科書を睨み続けた私にはその時の教室の嫌な雰囲気なんて感じ取れる訳がなかったんだ。当事者になるまで、いや…当事者になっても尚、ピンとこなかった。私の記憶から、何故かスッポリ抜け落ちていた。
授業が始まってすぐに、それは回り始まっていたらしい。
私の元に流れて来た時には、ほとんどの生徒が「それ」を見ていた。
当然だ。私の席は、窓際の前から2番目。そう、私が前の子に回したら最後。全員が、見たことになるはずだった。
私がまるで暗号解読のような気分で数式に取り組んでいた時、左の二の腕をトントンと誰かが叩いた。
見ると、後ろの子からのようで、手には小さく折り畳んだ紙が握られている。咄嗟に受け取るとそこには、『クラスのみんなへ』と書かれている。
回し手紙。そういや、あったな〜と呑気に構えていた。なんの躊躇いもなく開いてしまって、そんな自分にすぐ後悔した。
『矢田恭子は尻軽女、気をつけて。』
まずその文字が目に入って、後から次々と付け足されたのであろうバラバラな文字も目に入った。
ー人の彼氏に色目使ってる
ー寝取られた
ー最高の女じゃん
ー結構可愛くね?
ー男子ってほんとバカ
ーもうちょっと胸あったらな〜
その後の授業の内容は覚えていない。
ただただ呆然とするしかなかった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
固まって動けなかった。
私の手の中にあるこの手紙を、どうしたら良いのか分からずにいた。
「結〜衣ぃ!」恭子が私を呼ぶのと、
「結衣、今日うちらと一緒に食べよ」後ろの席の白石香の声はほぼ同時で、
「あ、うん」と香の誘いに応じてしまったのは、反射と言ってよかった。
だから香達の思惑も、その時の恭子の絶望も、私は察する事が出来なかったんだ。…分かっていたからって、何が出来たってこともないんだけど。
手の中の手紙を咄嗟に教科書の間に挟んで、ノートや筆記用具と一緒に机の中にしまって、ハッとした。
顔を上げた私と目が合う恭子の顔は、怒ってるんだか悲しいんだか分からないような表情をしていて、その目からは今にも涙が溢れ出そうだったんだ。
その時だった。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ…と頭の中でベルが鳴って、耳鳴りと頭痛が襲って来る。目の前に映るもの全てが歪んで見えて、気持ちが悪くなった私は、ギューっと目を瞑った。
ー気づいたら、あの部屋だった。
忘れてた。
強烈に印象に残ってるはずの出来事なのに、綺麗に忘れていた。
そうだ、あの日から分かりやすいくらい単純に、恭子はみんなからハブかれていったんだ。
もともとちょっと派手だった恭子を苦手な子も多かった。可愛くて、明るくて、ちょっとバカなところは男子からは割と人気で。恭子に言い寄る男子も多かった。あの頃、女子はそういう女子を毛嫌いする。男とか女とか、思春期特有の変化に戸惑う者達は特に、その変化にいとも簡単に乗ってしまった恭子みたいな子に反発することで、自分を保っていたのかも知れない。
今なら、そう冷静に分析することも出来る。
でもあの頃の私達には、そんな事できるわけがなかった。
ちょっと皆んなより純粋で、ちょっと皆んなより大人だった恭子は、私から離れるようになった。
そして、ちょっと恭子より臆病で、ちょっと恭子より子どもだった私もまた、恭子から離れるようになった。
皆んなの目的は、恭子を孤立させる事だったから…私が他のグループで存在するのは簡単だった。あんなに恭子と一緒に居て、姉妹のように仲が良かった私達なのに。皆んな、私には優しかったんだ。
恭子は次第に、学校を休みがちになっていった。
私は、そのことにもホッとしてたんだ。恭子を見るたび、意気地ない自分を嫌というほど思い知らされる。大好きな恭子を守れなかったズルイ自分を、どんどん嫌いになる。今日まで忘れていたのは、自分の意思だ。
忘れていたんじゃない、忘れることにしたんだ。
それでも、私の中に微かな救いがあったのは
『もしもタイムマシンがあったら戻りたい過去』にこの時代を上げていたことだ。多分、自分なりの懺悔。
でも結局、何も出来なかった。
広場まで戻るとお姉さんと黒猫が待っていて、
「お帰りなさい」と言った。
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