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「…あっ」
その仄かな甘みさえ感じられる蓮の茶を口に含んだ瞬間、私は昨日の出来事を思い出した。さっきまでモヤモヤとしていた霧状の記憶が、鮮明になったのである。
不思議なことに、此処までやって来たのは無意識だった。
気付いた時には建物の前に立っていて、『若菜さん』だと言うこのお姉さんに入店を促されたのだった。そうして、淹れてもらったお茶を飲んだのが…現在の私。昨日の出来事を思い出していた。
私の足元には尻尾をピンと立て腰高の姿勢でまとまりついてくる黒猫がいる。ゴロゴロと喉を鳴らし、尻尾をブルブルと震わせて。その彼は、ソファーに飛び乗ると私に頭や体を擦り寄せて来た。思わず、お茶をこぼしそうになる。
昨日と同じように広場を抜けて、私は扉の前に佇む。ドアには、ブルーのライトが浮き上がって見えた。若菜さんが中へと誘い、入り口近くにあるランプにオイルを垂らす。途端に部屋中にたちこめる香り。今日は何だかハーブのような清涼感のある香りに感じられる。
中央のリクライニングシートに体を預けると、昨日と同じく私の体に沿うようにカタチを変えていく。時計を手にした彼女が優しく微笑む。
「…では、良い旅を」
海の底深くへと沈んでいくようだった昨日とは違い、深い森の中にいるようだった。鬱蒼と茂る樹々の隙間から頭上の太陽の光を眺めるような、そんな感覚に包まれる。次第に意識はその光に吸い込まれていった。
ー意識は喫茶店にあり、ハーブの香りは珈琲に変わる。
最近流行りの無機質なカフェでもなく、可愛らしいカフェでもなく、レトロな昭和感を残すような…此処も覚えている。現在はもう閉店してしまった『パイン館』だった。年配の男性が経営する自家焙煎のそのお店は、珈琲好きのサラリーマンやご近所さんで賑わう。白い塗り壁にネイビーブルーのカフェテント。焦げ茶色の木枠にはめ込まれたガラス扉を開けると、カランカランとちょっと篭ったようなベルが鳴る。
シナモンスティックが添えられ、フワフワのクリームが乗ったカプチーノは私のお気に入りだ。「ごゆっくりどうぞ」と目の前に出されるカップはマイセン。そこかしこに拘りが感じられるのに、珈琲は380円と安い。小さくジャズの音色が流れる店内には珈琲の甘みや苦味そして酸味と様々な香りが漂い、珈琲色に変色した壁や天井に溶け込んでゆく。
ほどなくして現れたのは、須藤正臣…私の恋人。
高校の同級生だった私達は、2年生の夏休みから付き合い始めた。高校を卒業した彼はそのまま地元の会社に就職し、私は服飾の専門学校に進んだ。今思えば、その頃からすれ違いは始まっていたんだ。
過去に戻るのが2度目の私にはもう動揺は少なく、41歳の私は此処では20歳だ。遠い記憶を手繰り寄せながら、目の前で起こることの全てに委ねようと思い始めていた。
「ごめん、遅くなった」
灯の点いた店内に駆け込んで来た彼は、すっかりスーツ姿がサマになっている。そこには坊主頭で日に焼けたサッカー少年の面影は無く、一層まだ学生の自分が子どもっぽく感じられた。
「ううん、お疲れさま」
正臣は、テーブルの上にあった伝票を掴むと「行こうか」とレジへ向かった。私の飲んだカプチーノを、パインブレンドの珈琲豆と一緒に当たり前のように支払う。
店を出た私達は、彼の住むアパートまで15分の道のりを手を繋いで歩く。
「結衣、卒業したらさ…一緒に暮らそう?」
180㎝近い正臣の顔を、160㎝の私が見上げる。
「え…」
全く予想しなかったと言えば、それは嘘だ。だけど私は、彼が言いそうになるその言葉をずっと避けて来ていた。そんな私にとって、彼がいま口にしているその言葉は不意打ちだった。
卒業を間近に控えた私には、彼にずっと言いたくて言えない言葉がある。
「でもなぁ…今の部屋は2人で暮らすにはやっぱり狭いよな。せめて1LDK…いや、2LDKあったらこの先しばらくいいよな。」
正臣は私の返事がNOだなんて全く思いもしないような口ぶりで、どんどん1人で先を急いだ。…嬉しそうに。
「今度の休みに新しい部屋探しに行こうっか」
さっきからずっと、私が見上げるばかりで彼とは目が合わなかった。
「待って…正臣、私ね…」
言い淀んでいても、正臣は気付かない。
「あ、コンビニ寄ってこう。今日は弁当でいいよな」
そう言って繋いだ私の手を引いて、店内へと急ぐ。
「葵はいつもの親子丼だろ?」
私の返事は待たずに、カゴの中へと放り込む。でも本当は、お昼にも親子丼を食べたから違う物が良かったけど…言えなかった。
「他になんか欲しいのない?」
「ううん、大丈夫…」
ぐるりと店内を回って来た彼のカゴの中には、お茶のペットボトルが2本とポテトチップス、そして賃貸情報の雑誌が追加されていた。
(…そうだった。)
と、41歳の私が思い出している。
(…今夜、私達は大喧嘩をする)
それは別れに繋がる大きなきっかけでもあった。
手繰り寄せた記憶通りに、彼の住む部屋に足を踏み入れた。入るなり彼は私にキスをした。久しぶりの唇の感触に、胸が高鳴る。大好きな彼の腕の中に包まれている、それだけで安心できた。
高校の頃の私には彼のいる場所が世界の全てで、彼にだけ見つめていて欲しかった。望むのは大好きな彼との毎日で、それは最高の幸せだと思った。
だけど卒業して専門学校に進んだ私は、それまでの世界がどれだけちっぽけだったかを知る事になる。
私がまだ幼い頃、リカちゃん人形は友達の誰もが当たり前のように持っていた。私は自分の家がそれほど裕福では無い事を知っていたし、年の離れた弟達の面倒を見ていた私はそれが欲しいなんて言えなかったんだ。そんな私に、サンタクロースがプレゼントしてくれた。本当に嬉しかった。いろんな洋服を着せたかった私は、両親におねだりする代わりに家にあったハギレやティッシュを使って自分で作るようになった。
そうして家庭科の授業が好きだった女の子は、専門学校へと進む。
それからは洋服作りに夢中になった。個性的な仲間達はいつでも未来を見ていた。自分には特別な才能もセンスも無かったけれど、彼らと一緒に過ごしてると自分も主人公になれる気がして、私はもっともっと広い世界を見てみたくなった。
自分が生まれ育ったこの街では、限界がある。広い世界を見る為には、東京へ行くしかないと思った。
彼のことは大好きでも、同じくらい大好きな仲間と大切な夢ができた。
それを、正臣にも分かって欲しかったんだ。
「正臣あのね、私言いたい事があるの…」
そういう私の言葉を遮るようにして、更に唇を重ねる。
「後にしようよ、腹減ったわ」
その一瞬の表情に私は気付いた。…あの頃は分からなかったけど。
あの頃は分からなかったけど、多分そうだ。
だから、私は言う事を聞かなかった。
あの頃は何も言えずそのまま流されて、先に食事をして更にはその後に愛し合った。そのベッドで、私はやっと言えたんだ。
でも今日は…
「正臣、聞いて。私、東京に行きたい!」
彼は、私を見ない。
「私、正臣を好きな気持ちは変わってない。だけど、デザイナーになりたいっていう夢も叶えたい。出来るかわかんないけど、試したい」
彼は、私に背を向けたままだった。チン♪とレンジが温め終了を告げる。
「正臣…私」
彼は、私と同じだった。『一緒に暮らそう』と言わせなかった私と同じく、正臣もまた『東京に行きたい』と言わせないようにしてたんだ。あの頃に気付けなかった私が、21年経って気付けた事。もしもちゃんと自分の想いを口に出来たら別れるなんてしないでいられるかもと思った。正臣のことは大好きで一緒にいたくて、この先結婚するなら相手は正臣しかいないと思ってると。
…でも、そんな上手くいく訳がなかった。
「…俺に、待てって?何年も、何年も、結衣が諦めるまで此処で待てって?」
いつもの優しい声ではなく、氷のように冷たかった。
「ちが…」
「夢なんてそんな叶うわけないじゃん!俺だって大学行ってサッカー続けたかったさ!でもそれ以上やってどうなる?プロになれんのなんて何人かだよ!結衣の仕事だってそうじゃん!たくさんコンテスト受けてたじゃん、どれかに入賞とかしてたかよ!そんなに好きなら趣味でやればいいじゃん、俺らはその程度なんだって、いい加減気付けよ!」
お願い…怒らないで。
「俺と離れて平気なのかよ」
「…平気なんかじゃ」
違う、あなたと一緒にいたいの…
「お前言ったじゃん、離れたくないって!だから俺…結衣のこと考えて、転勤のない今の会社を選んだんだぞ…なのに…今更、ふざけんなよ…」
「…ごめんなさ…私、あなたと…」
結婚したいの、と言おうとしたその時だった
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ…前回と同じく頭の中でベルが鳴る。
襲ってくる耳鳴りと頭痛。
(いや…待って…)
目の前の正臣の姿が歪み始める。
(やだ…待って…)
ぐるぐる回る視界。
(待って…もう少し…)
鳴り続けるベルの音にギューッと目を瞑って私は、諦めた。
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