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今日も私は無意識のうちに此処へ来ていて、蓮の茶を口にして全てを思い出していたところだ。
若菜さんの表情が気になる。
これまでいつも穏やかで優しい彼女の笑顔が、今日は緊張しているように見えるのだ。そう言う私も、ちょっと緊張している。
再び対峙する過去は、一体なんだろう。そう考えているうちに、お茶も飲み干してしまった。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
若菜さんが私を広場へと繋がる扉の前に促す。
ーそんなに重かったっけ?
若菜さんは、ゆっくりとゆっくりと…その扉を開け放つと私を招き入れた。
いつの間にか私の足元には黒猫が居て、私よりも先にその扉をすり抜けて行く。その鳴き声がまるで、「早くおいでよ」と言っているようだった。
鍾乳洞はこれまでよりもキンと冷えている感じがして思わず身震いをする。それが寒さのせいなのか緊張のせいなのか、分からないけれど。
広場を抜けて、個室が並ぶゾーンへとやって来る。
初めて此処を訪れた時よりもずっとずっとドアを灯す明かりは多い。
前回訪れた時に青色だった私の部屋は、緑色に変わっていた。
ふと、気付く。
タイムリープが『4回』だと言っていた事に。…だとしたら、一度目が青。2度目は緑。今日戻って来たら、黄色か白。でも…赤は?他の色ほど多くはないけれど、確かに赤く光る部屋も存在する。
イメージで言えば、危険信号だけど。
ー危険って、どんな?
私に気付いてか、黒猫が鳴きながら足にまとわりつく。
「さ、入って。」
ドアが開かれ、ランプにオイルが垂らされる。
リクライニングシートに体を預ける。
(太陽の匂いだ…)
昔懐かしい匂いがした。庭の物干し台に干された布団。燦々と照りつける太陽の光を浴びた布団の匂いがしたんだ。温かくて…気持ちよくて…
「よい旅を」
若菜さんのお決まりの言葉が遠くなる…。
目の前に広がるのは、その太陽の光だ。ギラギラと眩しい、夏の日差し…
目が眩んで、黄色とも白とも言えないまばゆい光に吸い込まれていく…
ー気付くと私は、たくさんの段ボール箱に囲まれていた。
四畳半の小さな部屋。ベッドが一つ、机が一つ、飾り棚が一つ。そして、造り付けの洋服ダンス。部屋の中にはドアがあって、そこは物置き部屋に繋がっていた。
二階建ての実家。私の部屋だ。
そして明日私は、家を出る。
(…何故、戻った過去が此処で今日なんだろう。)
隣の部屋は6畳あって、2人の弟がそこを使っていた。私が出たら、高校1年と中学2年の弟達がそれぞれ自分の部屋を持てる。二人とも大喜びだった。
あれからようやく出来た夢を諦め、正臣とも別れた私はインテリアショップの店員となった。大好きな洋服に囲まれるには、まだ少し後悔が残り過ぎてたから。そこそこ大きなインテリアショップでお給料も良かったから、思い切って一人暮らしを始める事にした。23歳の夏だ。
私は、一人暮らしに憧れていたわけじゃなかった。
…でも、出たくないとも思っていたわけじゃない。
私にはずっと『居場所』がなかった。
私が思春期と呼ばれるものに突入した頃から、何故か次第に家族との関係が上手くいかなくなっていった。特に母親との関係はとても冷え切っていて、それが父親や弟達との関係にまで影響を及ぼした。
お姉ちゃんだった私に求められる事は多く、ましてや歳が離れていたから尚更、厳しかったんだと思う。
弟達はとても要領が良く、活発で、可愛げがあったのだろう。とても愛されていた。野球をやっていた彼らに、両親は懸命だった。いつも応援やら手伝いやらで、皆一緒に過ごしていた。
食事中の会話もほとんどがそれだから、私には入る隙がなく…無言で食べ続けた。両親にとっては、そんな私の態度も可愛くないと映ったのだろう。
高校に入って、新しい仲間や信頼できる教師達との出会いが私を少し変え、頑張ってみようと思った。
それまで中間くらいの成績だった私は勉強も頑張って上位に食い込むようになっていた。ある時、化学のテストで満点を取った。学年で私だけだった。しばらく会話らしい会話をしていなかった私だけど、思い切って母親に話しかけてみたんだ。
「一度、満点を取ったくらいで…」
それが、母の言葉だった。…私はまた口を閉ざし、心を閉ざした。
3年になった時、もう一度チャンスがあった。担任の先生に生徒会を勧められた時だ。決して自分から望んだ事はなかったけど、先生に信頼された事や向いてると言われたことが嬉しくて、母親にも頑張ってる姿を知ってもらいたいと思っていた。
「女の子がそういう事するの…お母さん、好きじゃないわ」
母の言葉は、いつも私の心の電気を消した。
何をやってもダメな子、認めてもらえない子、自分で自分をそう思った。
『いつもニコニコしている』それが、先生や友達が持つ私へのイメージだ。玄関のドアがスイッチになっているかのように、家での私は表情も言葉も無い暗い女の子だった。食事が終わるとすぐに自室へ入る私には、家族団欒なんて言葉は存在しない。まるで居候させてもらってる気分。
社会人になっても、それは続いた。
お弁当も、洗濯も、掃除も、自分の事は自分でしていた。月に一度、入った給料の中から3万円を母に渡す。その時だけ、私は母と対面した。家賃を大家さんに渡している錯覚に陥る。
家族、特に母と接する時は何故だかものすごく緊張をする。心臓の鼓動が早くなり、震えてくる。息が苦しくなって、でもそれを気付かれたくなくて必死に我慢をする。だから余計に表情も硬くなって言葉が出なくなる。
そんな姿はきっと、母を苛つかせていたんだろう。いつもなら何事もなく終わるやりとりでも、時には引き金となることもあった。
「アンタはいつまでそんな態度とってるの!全く可愛げの無い…そんなんでちゃんと仕事できてるの!?…何が面白く無いんだか」
吐き捨てるようなその言葉を浴びて私は、自室で声を殺して泣いた。
私は、どうして生まれてきてしまったんだろう…そんな事ばかり考えていた。愛されない自分は、必要ない。必要ないから、愛されないんだと。
もっと早くに家を出ていたらよかったのかも知れない。でも私は、この家を出たらもう縁を切られるんじゃないかと思っていた。だから怖くて、出ることも出来ずにいた。こんな関係になってしまっていても、私はまだ心の中で愛されたいと願っていたから。
…だけど、もう限界だった。
家を出ることを告げる時も何度も何度も頭の中で台詞を考えて練習をした。夕食の時にそれを伝えると母は素っ気なく「そう」とだけ言って、父は場所は?とかいつから?とか知りたがって、弟達は空いた部屋の使い道について盛り上がっていた。久しぶりの、私が参加した10分足らずの団欒。
明日の朝、私はこの家を出る。
荷物は父がワゴン車で運んでくれる事になった。明日は日曜日で、弟達の野球の試合や練習があるから無理だろうと思ってたら父が運送会社に任せるのはもったいないだろと言ってくれた。手伝ってくれることよりも、弟より優先して貰えるという事が何より嬉しかった。…多分、初めてだ。修学旅行のお迎えだって無かったくらいだから。
荷物といっても、この四畳半に収まる位だ…そんなにある訳じゃない。
あっという間に済んでしまった。
明日からみんな4人家族になるんだろうな、と思った。まるで、最初から私なんかいなかったように…そう思うと、涙が溢れた。
少しして、弟達がバタバタと帰ってきて家の中が賑やかになった。父の声もする。と、部屋のドアが乱暴にノックされ「姉ちゃん、ご飯」と声がした。
ー食卓には、いつもより少し多いくらいの食事が並んでいた。いつもと同じように弟達が騒いで賑やかな中、ひとり黙々と口に運ぶ。今日の練習の様子とか、明日の試合の事とか、会話はいつものように弟達の野球だ。いつも手伝いや応援に行ってる両親も2人の友達は全部知っているから、4人だけで会話が盛り上がっているのもいつものことだ。
(でも現在の私には、懐かしくて哀しい思い出。)
(美味しいな)
そう思いながら口に運んだ。
(懐かしいご飯は、大好きな物ばかりだ)
ザンギや、南瓜の煮物、餅巾着、酢の物、つみれ汁…
何故だか涙が出てきそうになりながら噛み締めていたから、いつもよりちょっとだけ長かったのかも知れない。
それが良くなかった。
「一人暮らしなんて、本当にできるの」
突然、母が口を開いた。内容からして当然、私に向けられたものだ。
「……。」
一瞬固まってしまったけど、何も言えるわけなく食事を続けた。
「何にも出来ないくせに一人暮らしだなんて、何色気付いてんだか知らないけど…迷惑かけないでしっかりやってよ」
今になって、そんなこと言われるんだ…と思った。母の声は冷たくて、早くここから離れなきゃって思った。
(そうだあの夜、私は取り返しのつかないことをした)
「なんか言いなさいよ!」
突然母が、大きな音を立てて乱暴にテーブルを叩いた。
なだめようとする父。驚いて固まる弟達。
(駄目、我慢して…我慢しなきゃ、私…)
「ここまで産んで育ててやったのは誰だと思ってんの!?自分1人で大きくなったみたいな顔して!」
私を睨みつけ、大声を上げる。
「…ってない…」
「は!?声が小さい!」
そのキンキン声や怒鳴り声を聞いてると頭が麻痺してきそうだった。
「…なん…で…なんで私ばっかり…」
「ほら、また!私ばっかり私ばっかり…って。アンタがそういう態度とってるんでしょう?いい加減にしなさいよ!」
(…駄目!言っちゃ駄目!)
あの日を思い出しかけながら、必死で我慢しようと思った。
「何が気に食わなくて家を出るんだか」
(…駄目ーっ!!……)
「…るさい…うるさい!!」
握りしめていたお茶碗を、思わずテーブルに叩きつけてしまった。
「お母さんには…私の気持ちなんて分からない…大嫌いなんでしょう?私なんか産まなきゃよかった…と…思ってる…んでしょう?弟達…さえいれば…いいんでしょう?」
泣きじゃくりながら、一息に放つ言葉は私に跳ね返る。
「…私も…わた…しも…嫌い…大嫌いな家だから…出るの!!」
(駄目、本当に言いたかったのはそれじゃない…)
私の言葉に、更にヒートアップする母。母を制しながら、私に怒鳴る父。「やめてよ」と泣き叫ぶ弟達。
ー頭の中でジリジリとベルが鳴る。
(…そう、戻らなきゃ)
ー次第に大きくなっていくベルの音に頭に激痛が走る
(わかってる、身を委ねるだけ…)
ーでも、それに反して留まりたいと願う私がいる。
(言いたかったのは違う、それじゃない…)
食卓の喧騒と、頭の中のベルが入り混じる。目を瞑って耳を押さえる。頭を掻きむしりたいくらいの頭痛が襲う。
『イヤァアアアーーーー!!!!!!』
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