売り主の男

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売り主の男

 昼を過ぎたころ、昨日の売り主が画廊に現れた。  傘を立てかけた音で聡子はそれと気がついた。キーボードの手を止めると、足早に玄関へとむかった。  ガラス戸の向こう側に両肩にズタ袋を下げた、香田タケルと思われる人影が立っていた。  聡子は香田が開ける前に、シルバーの取っ手を引いた。 「香田様、お足元の悪いなか、ようこそお越し下さいました」  失礼がないよう、にこやかに話しかける。聡子は自分でも違和感を覚えるくらい、昨日と打って変わった態度に出た。  香田は「ああどうも」と、言ったきりで、昨日と同様に口数は少なかった。蒸し暑いのにも関わらずニット帽を被り、カーキ色のシャツにズボンと同じ格好をしていた。  特別この時間に約束を交わしたわけではない。だが、香田がアポ無しで来たのは、絵が金になると判って、急遽売りにきたものと思われた。  雨で濡れた香田の両肩に、袋の紐が食い込んでいる。聡子は片方の袋を貰い受けると、画廊の中へと招き入れた。  袋はずしりと重さを感じる。  期待できるかもしれない。  聡子は逸る気持ちを抑え、客を昨日と同じソファーに座らせた。持っていた袋を香田の横へおろす。お茶を入れるために、そそくさと衝立(ついたて)の向こうへと消えた。      盆に茶と菓子を乗せ、聡子が戻ってきたときには、香田は袋から絵を取り出していた。   「今日は一段と蒸し暑いですから、麦茶を入れました。どうぞ喉を潤してください」  ガラステーブルの上に麦茶と水羊羹、おしぼりを順に置いた。  画廊のある西天満は最寄り駅から距離がある。聡子はここまで足を運んだ労をねぎらうように話しかけた。  香田は微かに会釈をするとビニール袋からおしぼりを取り出す。無精髭を生やした顔を無造作に拭いた。出された麦茶を奪うように手に取ると、喉を鳴らしながら飲む。コップを置いたと同時に口を開いた。 「昨日言った通り、ある中から見繕(みつくろ)ってきた」 「それでは、拝見いたします」  そう言って聡子は白い手袋をはめた。  二つの袋には八号の絵が十五枚ずつ入っていた。一号がハガキ一枚分の大きさになるから、絵は八枚分の大きさだった。  聡子は額縁のないカンバス一枚一枚を丁重に壁に立てかけ、画廊を一周するようにぐるりと並べ置いた。  三十枚のすべてが少年の絵だった。暗い背景からスポットライトが当たり、美しい顔が浮き出したような陰影で描かれている。厚塗りではない。いきなり下地なしで筆を走らせた。ダイナミックだが、繊細さも持ち合わせている。花冠同様に、何処かに必ず花が描かれていた。  少し離れた位置から、じっくりと眺める。そのどれもが昭和を代表する大作家と、なんら引けを取らなかった。  だが、これだけの力量がありながら、作家の署名がない。それも、画壇に一度たりともお目見えしなかったとは、いささか腑に落ちなかった。    売買を前提に考えても、八号という大きさも、美しい人物像も申し分ない。  日本の住宅、オフィスは狭いから、小さめの絵が好まれる  ここは父親が言ったように、三十枚すべてを買うのが正解だ。  だか、粗野な売り主の風貌が気になる。聡子が査定している傍から、待たされるのが嫌なのか、小刻みに足を揺らしている。  まさかの盗品ーー  いや、盗品なら無名の画家の絵など持ってくるはずがないのだ。  やはり、叔父の画家について、詳しく聞かねばならないと聡子は考えた。  
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