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画家の正体
香田が帰ってから、入れ替わるように父が帰ってきた。雨脚が強く、ズボンの濡れを防ぐため、裾を折り曲げていた。
「花冠の売り主が、持ってきたのか?」
康雄は裾を戻すのも忘れ、壁に立てかけた三十枚の絵の壮観さに目を奪われた。
「はい。たった今、帰られました。すれ違いませんでしたか?」
「帽子を被った目つきの悪い男か?」
「はい。次の約束も取り付けました」
「そうか。それで、幾らで買った?」
蓄えた白い髭をなでながら眼光鋭く一枚を眺める。
「一枚四万の計算で百二十万です」
「一号五千円。まぁ妥当な線だ」
ハガキ一枚分に五千円。日展などに入選する新人画家と、ほぼ同価格。無名でもうまく売り出せば、四倍の値がつくはずと、聡子なりに考えての買い取り価格だった。手元により良い作品を残せば、さらに大化けすると踏んだのだ。
「大森先生のところにお持ちになった花冠の絵は、どうなりましたか?」
「預けてきた。ーーそれで、これを描いた画家の名は、売り主の叔父に間違いないのか?」
「はい。香田氏の叔父だと。ですが、間違いないとは、もしや別人を?」
「はっきり確証は持てないが、絵に署名がない理由を考えている」
聡子は頭にある人物画を想い浮かべたが該当者が思い当たらない。
「普段は人物画を書かない画家が、名前を伏せて少年を描いたと?」
聡子の目には、どの絵も、同一人物が描かれているように見える。絵のモデルは、画家と近い関係にあるもしれないと推察された。
「葉山信幸。聡子はこの画家を覚えているか?」
「もちろん。十年ほど前に、うちの画廊で個展された方ですよね」
葉山信幸はその生涯を六甲山をモチーフに活動した風景画家だ。描いた画風は西のモネと讃えられ、今も人気の作家だった。
だが、持ち込まれた美少年の絵は宮廷画のようなバロック調の絵画だ。この両者はまったくスタイルが違っている。
「やはり、花のタッチがひっかかる」
康雄は鞄から回顧展の図録を取り出し、抜きの一枚を聡子に見せた。
筆に何色かの色を盛り、一発勝負の筆跡ーー
花に関してだけいえば、確かに筆使いは似ている。
葉山氏は関西芸大の教授であり人望も厚い。展覧会の審査員も努めていた。芸術に身を捧げ、生涯独身を貫いた。
ここ常盤画廊で個展を開いた翌年に行方知れずになり、遺体が見つからないまま推定の死亡とされていた。
「失踪後の評価は上がっています。ーーもしや、お父様は、葉山先生が生きていると?」
「いや、生きていたら誰かは気がつくーー」
ふと、聡子は香田の顔を浮かべた。はたして、彼の叔父が葉山氏なのだろうか。
署名がないのは世に出したくないという意思が働いたのかもしれない。
地位も名誉もある硬派の画家が、美しい美少年を描く。それも極めてプライベートな絵だとしたらーー
これは推測だ。だが、当たりかもしれない。
幼いころから絵画漬けだった聡子の本能がそう予感させた。
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