むかしむかし、薄荷色をした少年は

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むかしむかし、薄荷色をした少年は

※  その後も変わらぬハッカとの日々が続くのと同じく、あのテーブルには例の美人が居座った。  連日そこにだけ居続ける美人は、属性的に興味を持たない者以外は一度は声をかけに向かう程に目立つ存在になっていた。  光志(みつし)は相変わらず、苛立っていた。  それはそれ程の美人にもうつつを抜かさなくなった自分に対してでもあり、その現実に苛立つことにも、苛立っているようだった。呼吸をするように、十年以上当然に共に過ごして来た以上こういうことが起きないわけではなかったが、それでも叶えてやれないことにはどうしようもなく、光志(みつし)の苛立ちを収めてやるわけにもいかなかった。ましてその為だけにとなれば輪をかけて気分を悪くする。そうと知ってもいる以上、尚更どうしようもなかった。  目下、自分の中には常にハッカの存在があり、今日はなにを買って帰るのだったかと考えるような日々で、もしこのまま光志(みつし)を抱いても上の空であるに違いなかった。  今日も例に漏れず何を買い足して帰ろうか、考えている内にカウンターに客が来ていた。そして目線を上げるとそこにはあの美人がいて、出すはずに用意していた言葉も飲み込んでしまった。  美人は既に誰かから貢がれたのであろうグラスを、カウンターに置いてその場に留まった。何故か、何に対してか、戸惑い周囲に目を渡してしまった。後ろめたいものなどないはずが、何故かわからない。 美人は暫く、なにをするわけでもなくその場で時間を過ごした。カウンター中で店の一部となった自分もまた、その時を邪魔することがないよう務めた。現金な話だが、この美人が通い詰めてくれるだけ、店が儲かる。どの手であっても、逃してはならない存在ではあった。 何故か、視線で光志(みつし)を探していた。見つけてなにをというわけではないのだが、どこか、言い訳のはけ口が欲しかった。やましいことは、ない。けれどこうもそわそわしてしまうのは、どうしてなのか自分のことながら不明であった。 美人がカウンターに来てから、一本のショーが終わった。拍手と共に頭を下げ、腕を振ってステージを去るダンサーを背景にする美人は妙なものだった。背後の極彩色よりも、手前の美人の方が、目立つ。美人が動く度に揺れる茶色の髪、前髪から覗く少しばかり空ろな、冷ややかな目。印象は違うが、どこかハッカを連想させた所で、美人と目が合った。こんな目はこの店以外でも向けられ慣れたものだろう。視線を逸らすと余計に不快にさせてしまう気がして、店の人間らしく会釈をしてみせた。 その、自分の行動に美人が返して来たものは、あの一瞬であれ、忘れ難いものだった。 「あの、最近拾い物を、しませんでしたか」 なにかは知らない、一気に頭から覚めていくものがあって、先程までの浮ついた感覚もその時点で消え去っていた。 ※ 「聞こえてますか?」  覚め行く体からは意識も遠くなっていた。美人が明確に自分へ問いかけたものを、暫く呆けてしまい、不安になったのだろう、美人は正面へと場所を移した。  近くで見れば見る程、美人である。が、今はだからこそ、嫌な予感しかしていなかった。 「聞こえてます。店で落とし物ですか?」 「いえ、そうではなくて」  今のは少し、意地が悪かった。自覚したが、後悔はしていない。 「その、おかしいとは思いますが、あの、人を、拾いましたか?」 「人を、拾うとは?」  遠回し遠回しに防衛線を張るこちらの言い方に、美人は少し困惑した様子だった。このまま押し勝ってしまいたい、返せる言葉は幾らでも残っていた。  美人がなにか確信を持って問いかけていたのは、わかっていた。その道筋を辿らせたくはなく、辿りつかせることなく終わらせたかった。  「気のせいでした」そう言って、今日の所は帰って欲しい。明日、店に美人がいないことで光志(みつし)がうんざりするだろうが、それでも。この嫌な予感から逃れたいと、策を巡らせていた。  けれど、確信を持った美人もそれなりの決意を持っているはずで、続ける言葉に困惑はしても引き下がる様子は見せなかった。暫し膠着状態が続いた。こちらも、引き下がるわけには、もう、いかなかった。 「昔、恋人がいたんです」  美人は決した表情もまた、美しいままであった。 ※  美人には昔恋人がいた。四年連れ添ったが、出会った当初とは明らかに異なる程に強い束縛から来る暴力的な性格で四年、苦しんだ。体にも心にも痣が堪えなかったその、四年目の最後、出会ったのがハッカだった。  ハッカは当時、まだ高校に入りたての年齢で、美人とは九つも離れていたが、美人はハッカに惹かれていく一方だった。  恋人からの心身共にへの暴力で衰弱した美人にとって、ハッカの存在はその傷の数々を癒した。柔らかい性格も、物言いも、平和で温かい考え方も明るいその表情に、どこか抜けたふわふわした部分も。美人にとってそれは与えて欲しいものの全てであった。  ハッカもまた、それを拒む様子はなかった。後々の言葉でそれは事実であり、美人よりも先にハッカが美人に心を奪われていたのが真実だった。  美人はハッカとの道を選ぶ為、「嫌われる」ことで恋人から離れる算段を組んだ。いっそ手放そうと思われる為に、あらゆることをした。望まないことを、望まれないことを、やりつくした。  そうして二年をかけて、美人は恋人から散々な目に遭いながらも離れることに成功した。ハッカもまた、その間美人から離れることなく、美人の下した結果を素直に待った。  痛々しい道のりを超え、美人とハッカは恋人同士となり、穏やかな日々を過ごした。  その、二年後。  執着の強い元恋人は、またも美人の前に現れた。割愛しても表現は暴力的としか言いようもなく、ハッカと美人は災難に見舞われた。そして、美人は根負けし、元恋人の元へと戻った。それでハッカから目が逸れるはずだった。  けれど蓋を開けてみると、元恋人のハッカへの別の執着は美人の考えもハッカの考えをも上まった。執拗な元恋人の手によって悪い方、悪い方へと追い込まれたハッカは最終、あまりよくない人間のものとなった。言い方は柔らかだが、売られでもしたのだろう。  その後、そうした連中や元恋人本人の口から聞くハッカの処遇を追い、その後も二度、ハッカの所有者は変わった。  その、三人目の飼い主があの金髪の男。 あの金髪の男とハッカはあの日、この街で過ごしていた。そこでハッカは思いもよらないものを見たのだという。それは、たまたまこの街で過ごしていたこの、美人の姿だった。 そしてハッカはつい、自分のあるべき姿を忘れて言ってしまった。この、美人の名を。 美人はハッカに気がつかなかったが、その後の、あの騒動の前の騒動で、美人はその状況を知った。  金髪の男は入れ込んでいたハッカが美人の名を我を忘れて口に出したことに怒り狂い、暴れた。そして、最終的に、あの状況にまでなった。  あの金髪の男がそこまで、怒り狂えるまでハッカに入れ込んでいたことには少し、驚いた。そんな風にはまるで見えなかったが、あれでも、怒り狂える程ハッカを想えていたのか。それで、処遇に反してあれだけ綺麗な体を保っていられたのかもしれない。  そして、四人目が、自分。  執着の塊であった元恋人も、現在はこの美人から興味をなくしていた。ある意味では外見で選んでいたわけではないのだと感心しそうにもなるが、前途を忘れてはいけない。  そして、噂を辿って、ここまで来た。何日も遠目に観察し、本当に今ハッカを所有しているのかと。  それもまた、異常な執着だとは、思った。  試したい、というわけではなかったが、自分自身が「飼い主ではない」という意地が強かった所為だと、思う。  美人の話が終わったのかもわからない内に、「会いますか」と口を挟んでいた心境は、自分のことながらよくわかっていない。 ※  律儀に仕事をいつも通りの時間に終わらせて、光志(みつし)と店を閉めたその足で美人と自宅に向かう背中を、光志(みつし)が睨みつけていただろうことは容易に想像がついた。ハッカといい美人といい、光志(みつし)は一層気分が良くない。苛ついた仕草はここ最近一層見慣れていた。  自宅への道、美人はなにも言わなかったが、こちらもなにか言わなければならないこともなかった。もしこれが互いにハッカなしで出会っていれば、なんともロマンス溢れる状況であるはずだが、残念なことに互いにハッカが中心に結びついていた。  どこにも寄らずに、帰宅した。この十年、毎日の通り。  扉を開けると出掛けにつけたままで出た照明の輪の中、ハッカがいつものように床に転がって待っていた。現れた人影に顔を上げる仕草は、この数十日、見慣れたもののままだった。  けれど、ここまで一度も受けることのなかったものも、そこにはあった。 「ながれくん」  初めて聞いたハッカの声は、まるで平仮名を並べただけのような、柔らかなものだった。
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