ただのおっさんの恋のお話

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ただのおっさんの恋のお話

※  初めて聞いたハッカの声に、その表情に、反応出来ないでいた自分の背後からはまた、美人の声で初めて、ハッカの本当の名前を知るハメともなった。  「はつか」と呼ぶその声は、なんとも言えない感情で濁っていた。  その先にも付き合う気にはなれなかった。本当に、その一言だけで、「後は自由に」と、まさか自分の家を後にすることになるとは思わなかった。  この家での修羅場も、自分が出て行くことは初めてだった。  それから、十日以上自分の家に帰らなかったことも。  家を出てから一日だけは店で寝泊まりをしたが、すぐに光志(みつし)に嫌がられ、同時に説教を食らい、その後は当たり前のように光志(みつし)の家で過ごしていた。その分には光志(みつし)も願ったりかなったりといった様子なのは空気にすら感じられるもので、苛つく暴言でもなく、嬉々とした荒い言葉が躍っているようだった。  それも、十二日目まで。 「あんた調子乗るのもいい加減にしなさいよ」  いつまでも光志(みつし)の家にいることにでもなく、いつまでも自分の家に帰れない、その心境に光志(みつし)が怒った。  自分の家に居つく男が自分のものになるわけでもない上、違う男に対して鬱屈とした様子で十日以上家にも帰れないでいるのに、流石に耐えきれなくなった。光志(みつし)が。  どうしてやるわけにもいかない、そればかりは、これまでも、これからもどうしようもないのはわかっている。互いに。だから、この状況が堪えられないのも。  心の準備とキリの良い所まで、と、十四日目には帰宅する決まりにして十三日目を店で過ごしていた。  あのテーブルにもカウンターにも、美人はいない。元の生活に戻った。十年続けた、光志(みつし)に小言を言われながら、酒を作り金を回し、店を回し、その時々。  鍵もかけて出なかった家は、あの後、光志(みつし)が様子を見に行き鍵を閉めて来た。誰も入っているわけも、待っているわけもなかった。  光熱費が勿体ない、きっとカビが生えたシャワールームの掃除もしなければならない。冷蔵庫の中身は腐ったはず。色々と、憂鬱だった。  薄暗い店内のうるさい光の中から、光志(みつし)が向かって来る。今日もピンヒールを鳴らして、今日のものは昔戦闘靴と呼んでいたブランドのものだった。 「仕事してよ」 「サボってねえよ」 「ボケっとしてるのも給料泥棒よ」 「じゃあここの酒飲みに来るお前も給料泥棒だ」 「酒も仕事なのよ。こっちは」  いつもそればかり飲む。ギムレットを出すのと同時に、光志(みつし)が煙草を咥えた。それにも合わせて火を差し出すと、煙を吐く前に光志(みつし)の細く睨み潰された視線が突き刺された。 「落し物届いてるわよ」 「店に?」 「あんたよ」  灰色の煙が顔面に吹きかけられて、吸い込む前に手で払うと、煙が晴れた先に薄荷色が現れた。 「しずおくん」  随分と小奇麗になった薄荷色が、また平仮名だけを連ねて発した。 「外に落ちてたから拾ってあげたわよ。あんた、名前以外なにも言ってなかったのね。ていうか名前へ言ったの? そりゃ探せないわよ。こんな場所に、小学生が迷い込んだみたいな有様よ。シズオくん知りませんかって」  言って、光志(みつし)は苛立ちのまま、もう一度煙を吹きかけて来た。間に受けて、吐き出す肺が咳込んだ。 「ほら、言ってやんなさい、どういうことなのか。元々おつむが弱いおじさんはわかんなくて混乱してんのよ」  随分と飼いならされた調子で薄荷色が頷いて、従った。 「戻って、話し合って、色んなことちゃんとした。ながれくんがオレを探してたのも知らなかった」  小奇麗になった薄荷色は、随分と流暢に言葉を話す。徹して声を発していなかったのが嘘のように。 「難しいこと、沢山あったから。でも、まだ全部は済んでなくて。住所が必要なものは、まだどうにも出来てない」  やはり、平仮名だけを並べているように聞こえる声は、思っていたよりは低い。けれど少し鼻にかかった、甘ったるい声だった。 「ながれくんは好きだけど、大好きだったけど、会えて嬉しかったけど。でも、ぜんぶは信じてあげられなかった。はやくシズオくんの所にかえりたかったから、ちゃんと片付けてきたけど、よく考えたらシズオくんの家、知らなかった」  当然のように、喋っている。  我を忘れて名を呼べる程、それも二回もそう出来る程好きな相手と、相手に探して貰えて再会を果たして、綺麗なまま帰って来るだろうか。果たしてそんなくそ真面目な人間がいるだろうか。あの美人の恋人で、あの美人に探されて、長年想われたままで、そんなことが出来るだろうか。まして、この薄荷色が欲の弱い生き物ではないと知っている。綺麗なわけが、ないだろう。  名を呼んだ。何年も経っても忘れていない。あれだけ徹したハッカが。あの美人を抱かずに、帰ってくるわけがない。 「あんた聞いてんの」 「俺は抱くぞ」 「はあ?」  怒気を含んだ光志(みつし)の声に、ぼやけた頭がやっと呼吸をした気分だった。 「お前が恋人を抱いて来たののかは知らねえが、俺はお前を抱くぞ」 「……なに言ってんのあんた……」  美人や、美人の元恋人、あの金髪の男、彼等を異常な執着と感じた自分も余程酷い。  ハッカがなにを思ってなにを目的にして戻って来たのかも、特に焦って知る必要もない。なにも知らないまま同じ空間で過ごせた時間が、もう、既にあった。  「じゃあ、家に帰ろう、シズオくん」  苛ついた光志(みつし)の表情が更に歪む。その横で小奇麗になったハッカはカウンターに身を乗りだし、波止場で震えていたあの日から初めての笑顔で、手を差し出して、この手を握った。当然のように笑って、当然のように名を呼んで。  その日ハッカを抱いて、初めてその声を聞いた。
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