これで愛されています

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※  車は思ったよりも早く、ゆっくりと止まった。反射的に窓の外を確認すると覚えのない場所で歓楽街からは多少離れているのがわかった。  「服着ろよ」と言ってリョウジ君は車を降りてしまって、言われた通りにしようにも破かれた衣類はその役割にもならずにただの布になってしまった。性急に扱われたズボンよりはまともな形を残していたシャツに袖を通して、ちぎれかけた襟を握っていたところで正面のドアが開いた。  「なんだよそれ」と言うリョウジ君の顔は咎める様子はないけれど、自分がしたという自覚もなさそうだった。「こっち着ろよ」と渡されたのは今夜カプセルに入る前、あのお店に向かう前、この車の中で着替えたシャツだった。  リョウジ君はこうだから、自分以外にぼくの体を見られるのは好きじゃない。カプセルに入れられる対象としては珍しく、まっとうな恰好をしていたと思う。けれど今手渡されたのはシャツだけで、ズボンはない。さっき、リョウジ君が引き剥がしてしまったのが今日の衣装でもあったから、着替えは残っていなかった。「それでいいだろ」というリョウジ君の言葉に少しだけ、背中がざわついた。  シャツを着替えるのよりも先にリョウジ君がぼくを車から引っ張り出して、また、裸足のままコンクリートに降りた。道路なら、まだマシかもしれない。けれど、リョウジ君が今まさにぼくを引きずって行こうとする道は建物の脇にある真っ暗な細い道で、裸足で足元も見えない場所を歩くのは怖かった。なにを踏むかわからない、避けて行くことも出来ない。リョウジ君がそんな場所にぼくを連れて行こうとするよりも、そっちの方が怖かった。  襟を掴まれて、細い道を抜けると急に開けた場所に出た。そうすると途端に海のにおいがして、顔を上げると自分たちを照らす街灯よりも〝向こう〟の街の光の方がよっぽど明るく見えた。  なんて言っただろう。船着き場、堤防、なんだったか、波止場だっつか、そういう所。間に挟まる大きな川はただただ真っ黒で、どんな姿をしているかもわからなかった。  その場所を、リョウジ君は止まらずに進む。なにがしたいのかわからないけど、それ程怖くはなかった。リョウジ君はいつも、なにをするかわからない人だったから。  でも、「怖い」と思った瞬間には、もう、その状況になってしまっていた。  ぼくが声をかける前にはもう、リョウジ君の手から襟が離れて、ぼくの体は半分、宙に浮いて、そう思った瞬間には、冷たい水の中に落ちていた。  目を開いているはずなのに、ずっと真っ暗で、その目も痛くて、水の中で苦しくて、どの方向に向かえばいいのかもわからないまま藻掻いて、何度かしている内に左手が水の外に出たのがわかった。何度も手を伸ばしている内に光も見えてやっと、顔が水の外に出た。  咳き込む口から水が出て行く。奇妙な味がして、鼻から吸い込んでしまった水であちこちが痛い。何度か名前を呼んでいる間に目が痛みに慣れ始めたのか街灯を逆光にリョウジ君の姿が見えた。嬉しそうな表情か、喜んだ表情か、まだ水で濁った目にはどちらかはっきりはしなかった。 「あがってくんのはえーわ」  なにかを投げる仕草をして笑い声が聞こえたから、あれはきっと喜んでいる顔だった。 「こっち来いよ、あげてやるから」  自分自身で立てる波が小さく落ち着いた頃、リョウジ君はぼくから見て左手へと歩き出した。覚えの中で自分が泳げた記憶はないけれど、顔だけは沈み切ってしまわないように必死で守ってついて行った。だんだん街灯の光の範囲が広がって、リョウジ君との距離も縮まって、立ち止まって待つリョウジ君の元に辿り着くと手を伸ばしてくれているのがわかった。  その距離も以外と近い。この有様でなにも疑わずその手を掴んだぼくがおかしいのかもしれないし、掴んだその手を引いてから、もう一度離したリョウジ君がやっぱりおかしいのかもしれない。ぼくの体はもう一度水に叩きつけられるように落ちて、また、ただ、真っ黒になった。  最初に落ちた時に使い切った体力で、もう一度それを乗り切れる感覚もなくて、最初よりもずっと長い間苦しかった。折角水の外に顔が出ても低すぎて水を飲んでしまう。どの瞬間が呼吸なのか、もうわからなかった。  何度目かに水から顔が出て、もうリョウジ君の名前を呼ぶのもままならなくなった頃に引き上げられた。肺から出るような酷い咳をすると、同時にあちこちから水が出て来た。何度も咳をすると頭が熱くなる半面、足の先が冷たくなっていった。  頭の上でリョウジ君がなにか言っている。でも咳き込みすぎて頭の中が鳴って、よく聞き取れなかった。聞き取れても、もしかしたら理解は出来なかったのかもしれない。  どれだけの間か、なにかを言うリョウジ君に髪を掴まれたり、揺さぶられたり、また喉を掴まれたりしたけれど、その頃には体も冷えすぎて反応もしきれなかった。体力を使い果たした所為でうまく機能しないのか、体が震えて膝がぶつかる。力んだ顎が痛くて、関節が固まったようでぎしぎしと鳴る。体が強張って、リョウジ君の動きを目で追うのが精一杯だった。  リョウジ君がポケットからなにかを取り出して、やっと帰れるのかと思った。それは車のカギだと、思ったから。けれど、なにかを言おうとした瞬間にリョウジ君の顔が背後に向いて、そこにはリョウジ君の叫び声を聞いて確認しに来てしまったのか、人が立っていた。
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