洗うと一層薄荷色の男

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洗うと一層薄荷色の男

※  まともに歩けもしない人間を連れて歩くのは慣れた方だった。友人や店の客や、酔いつぶれてわけのわからなくなっている人間でも歩く動きを忘れることはない。支えて、自分が歩めば自然とその動きに倣って歩く。そういうものだと思っていた。  跪く男は、近くで見ると余計に震えが酷くなっているように見えた。  ガチガチと鳴る歯、強張って関節が固まり、まず立ち上がらせるのさえ難しい。しがみつくことも出来ない手のひらは握り締められたままで、かといって強引に引きずっては傷だらけになる。どうしたものか、考えた末肩に担いで持ち上げた。  大の大人の男を、それも強張った体では丁度良い状態に収まってもくれず、実際の体感以上に重く感じた。家までの数百メートル、細い道、曲がり角、細い廊下に階段を二階分、あちこちにぶつけないように庇う度、自分がどこかしらを痛めていた。  家の鍵を開ける為に、一度男を地面に下ろした。右半身で支えて、冬でも夏でも酷く冷たいコンクリートの上に裸足で、加えて背中を預ける壁も、同じ。抱えていた間も、今支えている肩口も、男の体温は微塵も感じられなかった。濡れた体で服も着ていないのと変わりない。肩口で、必死に堪える呼吸が聞こえていた。  開けた扉を足で押さえて、再び男を担ぎ上げた。何故か、一歩自宅に踏み入れた瞬間我に返った。なにをしているのか、考えて、思い出してみてもよくわからなかった。  鍵を閉めて、一応「この先から土足禁止」のエリアで靴を脱ぐのが、少々手こずった。男を担いだままでは不安定で、まるでうまくいかない。今日だけは例外で構わない、すぐに諦めて、土足のままで歩みを進めた。  とにもかくにも、温めるのが先決だった。体に伝わる震えが和らいだ気もしない。  元々がなにかの事務所、あらゆるものが後付けで浴槽を取り付けるわけにもいかなかったこの家には簡素なシャワールームしかない。とってつけたような透明な枠組みのそこに男を置いてから給湯器をつけ、お湯が出るまでの数十秒、ここでも、我に返った。この状況は、一体なんなのか。ほぼ裸の、震える男を目の前に、名も知らぬ、素性も知らぬ。  夜の街で働き、暮らし、なにも知らぬ相手と共に過ごす時間がないわけではない。一夜だけを共にする相手がいないわけでもない。寧ろそちらの方が断然に、多い。  けれど、これはそれとは違うだろう。派手なスーツの男を思い出すと、まともな関係とも、まともな人物とも思えない。  最早考えるだけ無駄か。給湯器の準備が終わった音がして、男をシャワーで流した。震える体が治まるまで、長い時間をかけて。
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