派手なスーツと薄荷色の男

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派手なスーツと薄荷色の男

 昔、何種類もの味の飴が入った缶があって、食べたい味が出て来なかった時、何度も戻して目当ての味が出るまで繰り返していた記憶がある。  あの頃、子供の頃、真っ白な薄荷が出て来た時、確か、何度も戻した記憶がある。子供にはあの味は少し、菓子のようには思えなかった所為だ。何度も何度も、戻した記憶があった。  薄荷の飴は、好きでなければ食べようとは思わない。好きでなければ探しもしないし、延々に、戻すことになる。  あの味は少し、癖があるから。 ※  今、目の前にある光景はなんとも異様で、凡そ海外のドラマか映画でしか観たことはない。それでもこんなにまでなった人間ではなかった気がしていた。演技では到底追いつかない現実は、あまりにも現実離れしていた。  夜の街、昼よりもずっと神々しい程に光り輝く街の中、仕事を終えるのはその光が朝陽に変わる頃が常だった。あくまで通常の話、今日に限っては、違った。  こんな日も、時折ある。仕事が趣味と交友関係そのものである生き方では休暇というものもそう、必要なものでもなくなっていく。その稀な休暇も「最近ロクに寝ていない、疲れがとれない」そんな一言で適当に眠り続けるのみだった。  それが、今日。  店を相棒に任せて自宅に戻った。閑静な住宅街など、そんな住み良い場所でもない。それまでどこかの事務所であったのだろうテナントに住み込み、もう十年以上は経つ。あれは相棒と店を持った、その頃から。  一階の店舗の前に、こんな底辺ばかりが集う街には不釣り合いな車が停まっていた。この雰囲気は、あまりよろしくない。  店舗の中でなにか起きているのだとしたら不在を決めていた方が安全だろう。自宅からほんの少し歩いた先、幅広い意味では、自宅の裏、時間潰しに波止場へ向かった。  どこもかしこも喫煙者には肩身が狭いが、土地柄、こんな場所では咎められることもない。咥えて、火をつけて。点の火から視線を上げると海を挟んで対面にも煌々と照る街の明かり、それに目を奪われて気付かず、踏み入れてしまった。  目に飛び込んで来たのは、コンクリートギリギリの場所で跪く白い人影と、殆ど目の前に現れた、派手なスーツで金髪の、男。一瞬では、一つも理解することが出来なかった。  目の前の情報を処理するのに、あそこまで混乱したことはない。夜の街であった様々の方が、余程簡単な出来事であった。  コンクリートギリギリの場所で跪くのはそのままの意味で白いのではなく、裸でワイシャツだけを着せられた人間で、白一色に見えていたのは、頭の先から全身ずぶ濡れでワイシャツが体と一体になっていた所為だった。  反して自分の目の前に現れた男は振り返り、目が合うよりも早く左手を自身の体に素早く隠した。その手に持っていたものなど、考えたくもなかった。  白い人影にしか見えない男は、これまで見てきた作られた物語の中ですら見たことがない程に震えている。スーツの男が隠した手も相まって、この尋常ではない震え様、この、異様な光景、場違いな自分。一つも、噛み合っていなかった。  唐突に、派手なスーツの男が笑い声をあげた。愉し気というよりは嘲るという印象のその声は、深夜の闇にはよく通った。 「ハハッ! 凄い、良かったなあハッカ。お前、運だけは良いな。いや、ぜんっぜん、良くねえのか」  派手なスーツの男は大きな身振り手振りで、跪き、震える男の頭を乱雑に撫でた。押し込むようなその雑な手つきで首から頭が捥げてしまうのではないかと不安になる程、震える男に自分自身を支える力は感じられなかった。震えて強張る、その力みだけでもっているような、有様だ。  撫でられて絡みつく髪の毛すら雑に払い、見ているだけでも痛覚が働いてしまいそうになった。 ――人んちの裏で、なんて趣味してんだ  口に出せるわけでもないが、咥えていた煙草にありがたみを感じたのは、吸い始めて二十年近く、初めてのことだった。  酔っているのかと疑う程、派手なスーツの男はぐねぐねと動く。膝や腰やらでぐねぐねと。  跪く男の様子より、この男の不審さで立ち去る足が動かなかった。背中を向けた瞬間に刺されても驚かない。とても、「やりそう」な印象だった。  跪く男の周りでぐねぐねと動きながら殆ど奇声のような言葉を投げつけていた派手なスーツの男が、くるりと急に踵を返して、それまでの奇妙な動きとは正反対に、まっすぐとこちらへ向かって来た。  やけに大股で、踵をぶつけて歩く音が、静かになった夜空に響く。 「どーぞ、拾って」  そのまま過ぎて行ってくれたら良いものを、男はすれ違いざまに強く、肩を叩き、跪く男へと顔を向けた。促すように、目配せをして。 「は?」  もっと言うべき言葉はあったのだろうが、そこまで働く余裕もなかった。 「今捨てたとこだから、拾って、どーぞ」 「いや」  派手なスーツの男は構わず、今自分が来た道を進んで行く。 「こんなトコにいて、自分は真面目ですーみたいな顔して。拾うでしょー、拾うくせに! 手頃!」  細い路地を、男はあのぐねぐねとした動きで、身振り手振り、進んで行く。 「いんだよ、どうせ誰も探さないし」 「いや」 「じゃあ売れよ」  吐き捨てて、派手なスーツの男は暗闇の中に消えた。同時に車の鍵が開く機械音が鳴って、ドアが乱暴に閉まる音がした。そして間髪入れずに発進し、去っていったのがわかった。  振り向けばそこには跪く男が尋常ではなく震えている。これを放っておけるとしたら、何日か後の自分が既に自分を軽蔑しているだろうとわかる。だが、同時に悔いする。それは放っておいても、放っておかなくとも。
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