こんな逆境に負けてたまるか!

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こんな逆境に負けてたまるか!

 秀英会では痴情のもつれで柊二が男に刺されたと、  まことしめやかに噂されていた。  出勤した倫太朗を盗み見ては、ヒソヒソ囁く者もいる。 「……」 「ドンマイ、倫ちゃん。気にすんな」 「ありがと、都村」  どうやら事件現場に院内の誰かがいたらしい。  その誰かは、この後すぐ判明する ――   「桐沢」 「山下先生」  振り返った倫太朗は、声をかけてきた意外な人物に驚いた。  山下は3年先輩の外科医。  医学生だった頃から大吾の事を師と仰ぎ心酔していたが、  その大吾は何かにつけて倫太朗を優遇し可愛がるので、  倫太朗には”憎悪”に近い感情を持っていた。  そして、昨年大吾が執刀した左心室形成術の  サポートスタッフに自分を差し置いて倫太朗が選ばれ、  その結果、アメリカへの特別研修が決まった事を  かなり逆恨みしているのだった。 「ちょっといいか?」 「はい」  廊下の端っこに連れて行かれた倫太朗は、  おもむろに「お前各務弟とデキてんのか?」と問われ。  仮にも自分らよりずっと目上の柊二を苗字で呼び捨てにされ、  その上いきなりそんな不躾な問いかけをされて。  普段はとても温厚な倫太朗もカチンと来て、  不快な表情を露わにした。       「あの、おっしゃってる意味がわかりません」 「とぼけんじゃねぇよ」  山下が取り出したスマホには、手ブレでピントもぼやけているが、  刺された柊二に取り縋って叫ぶ倫太朗の姿が映っていた。 「これが何か?」 「こんな夜中に上司と一緒って可怪しくねぇか?   しかも、ただならない関係って感じだったが」  職場の様子が可怪しかったのはこいつのせいか、  と思った。 「お言葉ですが、プライベートの事まであなたに干渉  される覚えはありません」 「この画像を流したら、お前も各務もゲイだって噂が  あっという間に広がるだろうな」 「広めたいならご自由にどうぞ。ただ……」  倫は薄っすら笑みを浮かべた。  まさか笑われるとは思っていなかった山下は  倫太朗の余裕に一瞬怯む。     「この画像って、柊二先生が刺された時の物  ですよね?」 「あ、あぁ」 「あなたは上司が血を流して倒れている姿をスマホで  撮影し医師であるにもかかわらず、悠長にただ  眺めていた、だけですか?」  やっと倫太朗の言わんとする事が分かって、  山下は愕然と黙り込む。 「―― ボクの事が目障りなのは分かってます。  もうしばらくご辛抱下さい。今取り掛かっている  仕事が片付き次第、いなくなりますから。では、  仕事に戻ります」  それからの日々は超多忙を極めた。  残業続きは当たり前。  宿直や当直以外でも院に泊まり込み、  なるべく早く日本から脱出出来るように  仕事をこなしていった。  柊二の容態経過はあつしと利沙が毎日、  スマホメールで教えてくれる。  柊二の意識が戻ったとメールがあれば、  トイレに駆け込みひっそり涙を流し。  一般病棟に移ったと連絡が入った時は、心から安堵した。  他の科に比べ女子率の高い産婦人科では、  今回の柊二と倫太朗に対しての心ない中傷や悪い噂は、  返って同情的に受け止められていて。  皆から早く柊二の見舞いに行ってやれと、言われていたが。  倫太朗にはもう広嗣との約束を反故(ほご)にする気はなく。  初めの予定通り、10月までに仕事を片付けNYに  旅立つ考えでいた。
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