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*  曇り空が満月を隠し、視界の悪い宵闇が広がる、そんな夜。電車を使って遊びに行っていた僕と美玖には、別れの時間が近付いていた。僕の最寄り駅で一緒に降りて、ベンチに座って乗り換えの電車を待つ。乗り換えて、2駅先に行くと美玖の最寄り駅だった。 「本当に、送らなくて大丈夫なの?」 「大丈夫大丈夫。すぐ着くし、わざわざお金かけてまで送ってもらうことないよ」 「でも、女性が1人で夜に出歩くのは危ないよ」 「だいじょーぶだって。帰ったら秒で電話するし、心配しないで。ありがとねっ?」  家まで送る、と言うのに、美玖は頑なに拒んでくる。昔から自分のために何かされるのが苦手な一面も持ち合わせてはいたが、夜に1人で歩かせるのは僕が怖い。  やっぱり家まで送るよ。そう言おうとして口を開くと、電車が来るアナウンスが流れた。咄嗟に美玖の手を掴んで、握り締める。その突飛な行動に、美玖も、僕も目を丸くした。 「ちょっと、どしたの。もしかして、寂しい? 家まで送ってくれようとするのも、もしかして離れたくないからじゃないのぉ」  茶化されて、顔が紅潮した。心底、不安で心配もしていたつもりだったけど、本音は寂しかったのか。自覚のないことを言い当てられた気がして、どうしようもなく恥ずかしく感じた。  美玖が優しく、手の平を包み返してくれる。電車の近付く音が響く。 「ね、今日は楽しかったよ。また遊ぼうね。あと、私のことを心配する前に、自分が無事に帰れるかの心配をすること! 私は私で、悠真が帰れるか不安なんだから」  柔和な表情で話す、その温度がどうにも心地良くて、僕は美玖を家まで送り届けることを観念した。  到着した電車は、美玖が乗り込むと間も無く発車してしまった。手を振ってくれたのに返すと、数秒もすれば電車の影は見えなくなった。本当に解散してしまったんだと、寂しくもなった。  月を見上げながら、電車を降りたら美玖も同じ月を見るだろうか、なんてガラでもないことを頭で思い、とぼとぼと帰る。玄関を開けた途端に聞こえる、両親の「おかえり」の声で、少しだけ気持ちが晴れた。  ソファに座って小説を読んでいる母と、冷蔵庫の中を覗き込んで何かを漁っている父。僕はテレビの前に座ると、バラエティー番組でもやっていないかとテレビをつけた。  ぽちぽちとチャンネルを変えていると、家族の誰かの気が向くとついている番組を発見した。リモコンを置き、テレビに集中する。  頭を使わなくてもテレビは面白いから、良い娯楽だ。気付けば母も父も、テレビの前に集まって一緒になって見ていた。同じところで笑い声をあげて、感情や意見を共有し合う。  何も考えずテレビを見ていたところで、ふと美玖のことが脳裏によぎった。そろそろ家に帰れただろうか。帰ったら電話してくれると言っていたが、まだ電話は来ていない。スマホで通知を確認するが、やはり何の連絡もない。時間的には既に帰っていてもおかしくないのだが、買い物でもしているのか。 『もう帰ってきた?』  SNSのチャットで、美玖相手にそう打ち込む。その時、家のインターホンが鳴り響く。送信ボタンを、押すと同時だった。 「こんな時間に誰だろうね」  母がのっそりと立ち上がると、玄関に向かった。父が警戒するように、母の行く先を睨みつけている。僕も、何となくテレビの音量を下げて、玄関が開く音に耳をすませた。 「あら、美玖ちゃんのお父さ――」  明るく出迎えた母の声が、ぷつりと途絶えた。急に停止された音楽のように、何の音沙汰も無くなった。物音もしない。玄関が閉まった音もしなかった。父が静かに立ち上がり母の方に向かう。僕も後に続く。  そぉっと、覗き込むようにして父と2人、玄関先に顔を出した。そこには、幾度も顔を合わせたことのある、美玖のお父さんと、僕の母が確かに居た。  けど、2人の面持ちは異常だった。  眉間にしわを寄せ、口を固く結ぶ美玖のお父さん。青ざめた顔で、今にも泣きそうな目をして助けを乞うように、僕のほうに振り返る母。  胸が酷く騒ついた。背中に冷たい汗が伝う。何かを拒むように視界が霞んで揺れる。どうしてそんな表情をしているのか。知りたくない、と直感的に思った。喉が渇き、心臓の音がやけに近く、大きく聞こえた。 「――美玖が、事故に遭った」  たったその一言が、僕に絶大な吐き気をもたらした。味わったことのない不快感、不信感、後悔、懺悔、拒絶、怒り、憎しみ――あらゆる感情が僕の脳内に、胸の内に一斉に押し寄せてきて……今にも、口から出てしまいそうだった。  嘘だ。そう呟いたつもりの言葉は空気になり、自分の耳にも届かなかった。母が縋るように、震えた手で僕の腕を掴む。 「美玖ちゃんの、お父さん、病院に行くんだって。悠真、あんたも、あんたも行きなさい、お母さん達も、行くから」  揺れる瞳。母が必死に発していた声は、全く頭に入ってはこなかった。何を、喋っているんだろう。今、何て言ったんだろう。僕はどうしたらいいんだろう。美玖のお父さんは、僕の両親は、どうするんだろう。美玖は、どこに、いるんだろう。  ぽん、と肩を叩かれる。凝り固まった首を機械的に回して、叩いてきた父の顔を見上げた。父は、僕ではなく美玖のお父さんに目線を向けていた。 「奥様は既に病院に行かれたのですか」 「あ……いえ、家内は車で待っています。降りられる状態じゃなく……でも、悠真くんの家族に伝えに行きたいとは言っていたので」 「俺が運転してもいいですか。なるべく急ぎはしますから」 「いいんですか。……ぜひ、お願いしたいです。自分も、本当は運転するのが今は怖くて」 「じゃあ早く出発しましょう。悠真も、母さんも、すぐに出られるな?」  頭を上下に動かしてみたつもりだが、実際に動いたか分からない。吐く息が、心臓が、全身が氷みたく冷えている感覚。寒さで震えているような足を引きずるように移動して、車に乗り込んだ。  暗闇の中を走っている時間は、あっという間だった。気付けば病院に辿りついて、微動だにしなかった美玖のお母さんが、到着した瞬間に車を飛び出した。僕達も後に続いて駆け出す。  美玖は今、どこで、どんな状況なのか。もし死んでしまったら。今日が美玖と話した最後の日だったら。考えたくない。考えたくないはずなのに、意思と反して悪いことばかりが頭に浮かんでいた。  待合室に案内されたが、皆、手術室側の椅子で各々座ったり、佇んだりした。美玖のお母さんは、座って俯いたまま、またも微動だにしない。隣で肩をさすり、手術中のランプから目を離さない美玖のお父さん。  その光景に対する膨大な罪悪感。今日の思い出がフラッシュバックして、美玖の笑顔が脳裏にこびりつく。僕が家まで送っていれば、事故になんか遭わなかったかもしれない。僕が、美玖の言葉に甘えてしまったから。1人で帰らせてしまったから。  僕のせいで、美玖は事故に遭った。  このまま美玖が死んでしまったら、僕は美玖を殺した人間だ。大切な、大好きな彼女を、僕は守れなかった。  怖い。怖い。人殺しになることが? 彼女が死んでしまうことが? 分からない。とにかく怖い。不安や後悔よりも、恐怖が遥かに上回って支配してくる。  口の中がカラカラに乾く。呼吸をするのが苦しい。お願いだから、帰ってきて。嫌だ、絶対に嫌だ、死んでしまうなんて絶対に許せない。同棲するって言ったじゃないか。将来、結婚だってしたいよ。美玖がいなきゃ、話にならないんだよ。美玖がいないと、誰も笑顔になれないんだよ。  何度でも謝るから。代わりに僕が死んでしまおうと構わないから。都合が良いだなんて笑わないでくれ、お願いだ、神様。  どうか、美玖のことを助けてください。  それ以外、何も望まない。  だから、美玖のことを殺さないで、神様。
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