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「ライブ、今からでもチケット大丈夫かな。今夜出演するんでしょ?わたし友達誘って観に行こうかな」
浮き浮きとそう言ってくれるかの子さんの言葉をありがたく受け取って、わたしと堂前くんは彼の元バンド仲間が待つ市街にあるスタジオへと出発した。昨日はさっと音を合わせてみただけだから。今日はもう少し本気で詰めないと。
わたしの新曲披露がメインだけど、他にも数曲を演奏する予定だからそっちも練習する必要がある。わたしは彼らとは初セッションだし他のメンバーも久々集合したわけだから、たった一日じゃどうしたって突貫工事だ。そう考えると練習時間を無駄にはできない。
昨日と同じ顔ぶれがスタジオに集まった。新曲以外の演目を相談して決め直す。前もって予定してたリストの中から一曲を、ユヅキさんの得意なアーティストの曲と差し替えることにした。バンドメンバーにとっては過去に何度も演奏した曲だから急な変更でも問題ない。一方でわたしとしては急いで歌詞を覚える必要がある。イヤホンを耳に差し込んで必死に音に集中しつつ引き続き打ち合わせにも参加した。
「あのさ。昨日タッツーに聴かせてもらった録音の中で。ちょっと、やってみたい曲があるんだけど」
そう言って音無くんが持ち出したのは『一週間に八日』だった。
堂前くんが促されてスマホを出してみんなにその場で聴かせる。へぇ、と口々に感心するような声が漏れた。
「この声歌音ちゃん?すごい、チャーミングだね。ちょっと中性的な声で振り切れてて、圧倒されるなぁ。…このコーラス、やっぱタッツーか。相変わらずステージでだけは声出る奴」
「曲自体はシンプルだから。コード押さえてリズムベース取れればなんとかなるかな。…キーボードはいけるよな。お前の器用さなら」
「まあ。これくらいの短さならね。一応元から知ってる曲ではあるし」
担当の男の子が請け合う。やっぱ、ここでもキーボードは小器用なんだな。山岡くんみたいに小さい頃からピアノやってた人なのかもしれない。
それで一気に盛り上がって、急遽ビートルズも一曲リストに加わることになった。今夜本番なのに、いろいろと忙しい。
ぎちぎちに詰め込んだリハが続いて、一時間ほど経ったところで一瞬やっと休憩が入る。わたしはちょっと息抜きしたくて部屋を出て、トイレを済ませてから自販機のある片隅のスペースに向かった。この隙に水分補給しておかないと。
何気なくスマホを取り出してみて、自然と軽く瞳孔が開いたのがわかった。
彼からLINEが送られてきてる。
昨夜、その日の報告のやり取りはしたけど。他人様のお宅だし、あまり声を出すのもどうかと思ったので通話はなしで文面だけでお互い済ませてた。そこにはついさっきの時刻で端的にこんなメッセージが残ってる。
『どんな様子?今夜本番だよな。忙しくて大変だと思うけど。もしほんの少しでも時間あったらいつでも連絡して。俺は今日家で仕事だから』
これって、特に用事なくても電話していいって意味だよね?とそっと自分に問いかけて、素早く通話をタップする。迷ってる暇なんてない。休憩時間、そんなに長くないし。
『…お。大丈夫か、今?リハ中とかじゃないの?』
即電話に出てくれた。きっとパソコンの傍にスマホを置いて仕事してたんだろう。
懐かしいその声を耳にしたらどっと何かが胸に溢れてくる。やっぱり大好き、わたし。この人のこと。
「へいき、今休憩中。雅文くんは大丈夫なの、お仕事?あとでかけ直そっか」
『別に平気だよ。ただあれこれ調べものしてただけだから。お前こそ忙しいだろ。LINEなんかして悪かったな。すぐにかけてくれたのはもちろん嬉しいけど。気を遣わせちゃったか、かえって』
あくまでもわたしの心配をしてくれる。わたしはスマホを片手にぶんぶんと首を横に振った。
「気を遣ったんじゃないの。すぐ電話したのは。…ただ、わたしの方が。声聴きたかったから、ずっと」
それはほんとだ。二人の離れた距離を感じさせない、耳許すぐ近くに息遣いまで感じるその声。気づかないうちにいつの間にかあちこち強張ってたわたしの全身をじわん、と自然に解してくれる。
電話の向こうで彼が短く笑ったのがわかった。
『昨日の朝うちから出発したんだぞ。まだ二日目じゃん。そんな、何日も会ってないって声出すなよ』
「だって。今日は一回も会えないんだよ?」
帰るのは明日の予定だから。今日に限れば全く一度も彼の顔を見ることも、触れることもできない。
そこまで考えてからあ、ビデオ通話にすればよかった、と後悔する。でも切り替えをする時間ももう惜しい。
思わずため息混じりに電話越しにこぼす。
「付き合い始めの頃のこと思い出すなぁ。最近は全然会わない日ってないから、こんな感じ忘れてた。…今日も会えない、明日も会えない。次はいつ会えるんだろって、帰るときにはもうそのことばっか考えてたよ、あの頃。…ああ、ほんとに今日は会えないんだ。そんなの久しぶり、つらいなぁ」
その実感がずしん、と脳に沁みてくる。昨日は初めての場所で初めてのこと尽くしで、あんまりそのことを考える余裕もなかったけど。
雅文くんは大人の余裕で明るく笑って突っ込みを入れてきた。なんかちょっと憎らしい。
『大袈裟だな。明日はもう東京じゃん。こっちに直に帰ってくるんだろ、予定では?お前んちの方に戻らなくても大丈夫だよな。着替えもちゃんとこっちにあるし』
「絶対そっちに行く。着替えなんてどうにでもなるもん。…雅文くんが迷惑でないんなら。自分の部屋に寄らないで直接帰ってもいい?」
勢い込んでから、ちょっと心配になってトーンダウンすると彼は温かみを感じさせる柔らかな声で請け合った。
『当たり前だろ。ここは半分お前んちだよ、もう。ちゃんと腹減らして帰ってこいよ。明日何食いたい、歌音?』
「なんでもいいよ。雅文くんのご飯、なんでも美味しい」
だんだん普段の気分が戻ってきて人心地ついてきた。自分では自覚のないままに、彼の成分が足りなくて欠乏状態だったんだな、としみじみする。
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